異世界転生楽器職人の魔導師

異世界転生楽器職人の魔導師 第6話「第5章」

市場の通りはいつもより薄い息をしていた。屋台の布が揺れても、誰も笛に合わせて笑わない。会話は震えるように小さく、鉛色の気配が人々の周りを滑っていた。フィオは作業着の襟を直しながら、路地の角に集まる人だかりを見た。守るべきものは、いつもそうして自分の前に転がり込んでくる。

市場の通りはいつもより薄い息をしていた。屋台の布が揺れても、誰も笛に合わせて笑わない。会話は震えるように小さく、鉛色の気配が人々の周りを滑っていた。フィオは作業着の襟を直しながら、路地の角に集まる人だかりを見た。守るべきものは、いつもそうして自分の前に転がり込んでくる。

「これは……あの笛だよな、音のない笛って言ってたやつか」

隣に立つ女がそう囁く。女の声にも萎縮があり、視線は下に垂れた子どもに向いていた。子どもの膝には小さな木の笛がしがみついている。指先は泥まみれで、唇は引きつっていた。年は八つか九つほどだろう。誰かが肩を抱こうとすると、子どもは縮こまって目をそらす。

「役人が見つけたら持っていかれるよ。音なんて出ないなら、ただの危ない道具だって言われる」

別の男が低く言う。言葉に従うように、周りの者たちが自然と距離を取る。秩序という名で静寂を貼りつけるものが、誰かの持ち物を「危ない」と呼ぶ瞬間だった。

フィオは、じっと子どもの顔を見た。黒い瞳の奥に、怯えと欲望が混じっていた。欲望は簡単だ。音が鳴れば笑いたい。だが笑うことは許されない。子どもはそのせめぎ合いで声を飲み込んでいた。

「その笛、預からせてもらえますか」

声はいつもの落ち着きを帯びていた。フィオは前掛けのポケットから小さな布袋を取り出し、そっと両手を差し伸べる。自然と人々が後ろへ下がり、空いた道を作った。子どもの母親らしい女性が前に出て、顔をしかめて言った。

「あんた、誰だい。役所の人間か?」

フィオは首を振った。彼女の指先はいつもより冷たく、作業で鍛えた手の甲には古い傷が幾つか刻まれている。その手が笛の表面に触れると、周囲の空気が一瞬だけ重くなるのをフィオは感じた。多くの楽器には様々な記憶が染みついている。彼女の仕事はそれを読み取り、修めることだった。

「違います。店を構えています。小さな修理屋です。この子の笛、僕に見せてくれませんか。壊れているなら直したいだけです」

言葉は皿の上の料理のように慎重に置かれる。母親は一呼吸おきに子どもの背を押した。子どもの小さな手が笛を差し出す。木は艶がなく、ところどころに擦り傷があった。先端には小さな布が結わえられている。布を解くと、そこには古い焼け跡のような黒い染みが輪になっていた。

「音のない笛」と呼ばれるものだと誰よりも最初に知ったのは、フィオ自身だった。だがすぐに、その呼び名は噂になる。壊れているのではない、何かに封じられている、だから「音がない」。人々は音のないものを恐れ、そして役所はそれを秩序の象徴として扱う。フィオはいつも、その連鎖を止めたいと思っていた。

「うちの店に連れて行っていいですか。ここで騒ぎになると、役人が来ます。僕が見て、直せるかどうか判断します」

母親は迷い、子どもは唇をかむ。やがて、黙って頷いた。

市場を抜けるまでの間、歩幅は自然と遅くなる。周りの視線は痛いほど冷たかったが、フィオは気にしない。彼女が守る対象はここにいる小さな人間たちだ。目の前の子どもを助けることは、街全体を守ることの縮図だと彼女は知っている。

店につくと、フィオはまず笛を細かく観察した。外側は年季が入っているが、鍵や穴に異常は見えない。マウスピースも綺麗に削られている。息を吹き込めば、普通なら薄い音でも出るはずだ。ただ、それが出ない。その場に居合わせた子どもが、口をすぼめて吹こうとするが、空気は虚しく出てゆくだけで何も鳴らなかった。

フィオは一度、唇を噛んだ。能力の在り方が頭の端をよぎる。修理の最中、持ち主が言えなかった一言を楽器は預かる。預けられた言葉は音色になる。しかし、預けた者の同意がなければ、その音色は鳴らせない。無理に鳴らすと、フィオの耳が聞こえなくなる。――言葉は交換の契約であり、無理に奪うことは、自分の感覚を代償にしてでもその声を奪うことに等しい。

彼女はそのルールを破りたくはなかった。だが正直に言えば、胸の奥には別の声がある。もしも今、笛から声が出れば、子どもは救われる。すぐに楽器の秘密を知り、役人の目を欺く手立てが見つかるかもしれない。フィオは目を閉じ、そこにある想像の音を追った。子どもの笑い、家族の夕べの合唱。だがその想像はすぐに苦くなる。無理に鳴らせば、彼女の耳が戻らなくなる。仲間を守るために必要な、次の判断ができなくなるかもしれない。

「フィオさん」

「……はい」

後ろから小さな声がする。店に出入りする幼馴染の修理職人、トマが首を覗かせていた。彼は自分の頭巾をぎゅっと掴んで、心配そうに店の中を見回す。トマは楽器そのものを直せる腕がある。それに、フィオの決断を見届ける目も持っていた。

「無理に吹かなくていいよ。聞くのは僕らじゃない。子どもが自分で出したいと思うときに、そのときまで待とう」

トマの言葉は単純だが、鋭くフィオの胸を突いた。自分が守る相手の意思を踏みにじることが、どれだけの代償を生むか。トマの顔に嘘はない。仲間は指図されるためにいるのではない。彼らは自らの判断を持つ存在だ。

フィオは黙って頷き、笛を膝の上に乗せた。子どもはまだ小さく震えている。フィオは呼吸を整え、低い声で話しかけた。

「ここが安全だって、少しでも思えるようにしたい。無理に音を出さないで。ゆっくりでいい。君が言えないことがあるなら、僕はそれを待つよ」

子どもは小さく首を振り、目に浮かぶ湿りを必死に拭った。その指先が笛の側面に触れる。木の感触が冷たく、彼の小さな手には不釣り合いに古い匂いが残っている。

「ぼくの……おとうさん、歌ってた。でも、ある日いなくなった」言葉は息の先に消えそうになりながら出る。子どもは慌てて口を手で塞ごうとした。喉まで出かかったもう一つの言葉を誰かに奪われることを、彼は恐れていた。

「誰が?」フィオは素朴に尋ねる。問いはただの糸口に過ぎない。相手が自分の言葉を守れることを確かめるための行為だ。

「お役所の人たちが……歌うと危ないって言って、父さんを連れてった」子どもの声が再び震える。どこかで役所の印字がある。フィオは無言で首を垂れ、笛の木目をなぞった。焼け跡のように見えた黒い輪は、よく見ると小さな刻印だった。指で撫でると、かすかな溝が触れた。溝の中心に、決して街の職人が使うような刻印ではない印が押されている。角張った十字のようにも見えるし、広げられた手のようにも思えた。役所の検査印……かもしれない。フィオは心臓が短く跳ねるのを感じた。

「父さんは、最後に何を歌ってた?」フィオは聞いた。子どもはしばらく黙った。言葉が喉に戻される。封じられているものを、彼はまだ誰にも渡したくないのだ。

「『ここで待て』って、言ってた。ぼくに。あの日、父さんはぼくに笛を渡して、笑って。次の日、もういなかった」

ひとつだけ、子どもの胸に残った言葉。それは小さく、しかし確かな穴を作るように空間を切り取っていた。フィオはその欠落の形を見た。言葉の欠片が、人を静かに殺すことがある。役所は「秩序」と呼び、それを正当化して忘れさせようとする。だが記憶は穴であり、穴は人々の心にひずみを作る。

フィオは笛を手に取り、そっと息を吹き込むふりをし