異世界転生楽器職人の魔導師

異世界転生楽器職人の魔導師 第5話「第4章」

朝の光がガラス越しに工房の床に細い帯を描く。木屑の粉と真鍮の油の匂いが混じり、いつもの空気がそこにある。フィオは指先でサクソフォンのキーをなぞりながら、今したいことを頭の中で繰り返していた――楽器を守ること、持ち主の言葉を預かること、町の声を取り戻す準備を続けること。店の奥では、見習いのエルが布でフルートの外面を磨き、外の通りはいつになく静かだった。

朝の光がガラス越しに工房の床に細い帯を描く。木屑の粉と真鍮の油の匂いが混じり、いつもの空気がそこにある。フィオは指先でサクソフォンのキーをなぞりながら、今したいことを頭の中で繰り返していた――楽器を守ること、持ち主の言葉を預かること、町の声を取り戻す準備を続けること。店の奥では、見習いのエルが布でフルートの外面を磨き、外の通りはいつになく静かだった。

「おはようございます、師匠。今日は──」エルが顔を上げると、店の扉が静かに開いた。外套をきちんと着た男が、一歩足を踏み入れる。肩章に金の縁取りがある。内務省の巡察官だ。歩き方は整然としていて、声には説得の滑らかさがあった。

「フィオ・ラヴェール様ですね。内務省より検査に参りました、ベルクと申します」男は名乗ると、書類の入った小箱を慎重にテーブルに置いた。箱は触れれば冷たい金属の香りがするような角張ったものだった。

フィオは息を詰めずに、むしろいつもより穏やかに応えた。「検査ですか。どうぞ、ご覧ください。修理は今でも承っております」

店には裸電球の下で乾いた空気が満ちている。ベルクは周囲を一瞥し、楽器の並びを指でなぞるように見て回した。「良い陳列ですね。ただ、内務省からの指示で、楽器の所有状況を確認し、必要な場合は保管場所の移転を命じることになりました。秩序のためです。音が公共秩序を乱すことがあるのはご承知のはずです」

「公共秩序──」エルが小さな声で繰り返した。フィオの掌が一瞬だけ固くなる。秩序という言葉は、静けさを衣にした抑圧の名だった。彼は何度もその言葉で街の声を削いできた。

ベルクは書類箱から薄板を取り出し、規格の文書をテーブルに広げる。印章が所々に押されている。フィオはその印章の形を見覚えがあった。あの夜、楽譜店で拾った紙片の焼けた端と同じ曲線を、どこかで見たような──。思考は走ったが、表情には出さなかった。

「具体的には、来週から市内一斉の点検を行います。所有者に通知が行き、指定の保管場へ移送される。必要に応じて楽器は検査され、演奏可能か否か、用途に応じた管理を施します。フィオ様のような職人には、協力をお願いすることがあります」

協力の語が喉に刺さる。フィオは一度呼吸を吐いた。「協力の形を教えてください。具体的に何を求められますか」

ベルクはゆっくりと笑みを浮かべる。「例えば、専門家としての鑑定。あるいは、所有者が立ち会えない場合の動作確認。楽器が公共の安全に影響を与えかねないか、技術的な観点からの判断を。もちろん、職人には相応の報酬と保護が与えられます」

「所有者が立ち会えない場合の動作確認」――その言葉で、エルの手が止まった。フィオは即座に反応を作った。立ち会いを要求することは、彼女がこれまで守ってきた同意の原理に抵触する。修理を通して預かる言葉は、持ち主の意志がなければ鳴らせない。政府の「協力」はそこを無視してくるはずだ。

ベルクの視線が鋭くなった。「もちろん、立ち会いが困難な場合もある。内務省では『安全のための例外』を定めています。職人の裁量で音の確認を行い、必要とあれば楽器の機能を停止する。秩序です、秩序」

フィオの指先がサクソフォンのキーに触れる。修理屋としての本能が囁く。楽器の内部を確かめることはできる。だが、その先で口を開かせるべきではない。彼らの言う「機能を停止する」方法は、持ち主の声や思いを奪うことに通じかねない。彼女は喉を絞めるような感情を押し殺して、冷静に笑ったように振る舞った。

「我々の店は、お客様の同意を重んじています。所有者の方が来られない場合、代理の方と書面で取り決めを交わすことにしています。旨を内務省に申し上げれば、双方にとって安全かと」

エルは小声で、しかしはっきりと言った。「師匠、でもあちらは例外を認めると言ってます。立ち会えないなら、あなたが音を確認してくれと。無理に音を出すように言われたら──」

フィオの身体が瞬間的に硬直した。無理に音を出すと、彼女の耳がさらに奪われる。それは単なる噂ではない。表立って語るべきものでもないが、彼女は内心でその代償の重さを知っている。もし無理に鳴らせば、自分の感覚の一部が消える。二度と戻らない可能性もある。立ち会いという名目の元、官憲はそのリスクを職人に押し付ける。

ベルクはその場の空気を読んで、ゆっくりと近づいてきた。「フィオ様、我々は町の安全を守っている。仮にあなたが検査に協力してくれるなら、内務省としてもあなた方職人の店を保護する。協力は、店の存続にとって有利です」

保護か。脅しを隠した優しさだ。フィオは内心で舌を噛むような怒りを感じたが、それを表には出さなかった。怒りは正面衝突を生むが、今は別の方法が必要だ。彼らの目的は、楽器を管理下に置くこと、音を国が定める枠に収めることだ。力で押さえつければ抵抗は生まれる。彼女の選択は、公開の場で協力するふりをして内部の情報を得ることだった。

「分かりました。協力というのは、具体的にいつ、どのような形でしょうか。日程と手順を教えていただければ、こちらで準備ができます」フィオは作業台に肘をつき、落ち着いて言葉を整えた。声は穏やかだが、内側には鋭い計画がある。

ベルクは書類の一枚を差し出した。「来週火曜から、北区と南区の一斉検査です。書類に目を通して、職人のリストにサインしていただければ、検査の通知を早めることができます。特別に、フィオ様の店は検査チームの適合業者として挙げておきましょう。協力すれば、家屋移送の対象から外すよう申請できます」

エルが唾を飲んだ。フィオは賢明にその差し出された書類を受け取ったふりをして、隅に目を落とす。印章の威圧、予定の埋め尽くされた日付、そして点検対象の住所一覧──そのいくつかが彼女の記憶の中で以前見つけたものと繋がり始める。破れた楽譜の断片に押された黒い墨の痕跡と、この書類の四隅の紋様が、確かに似通っている。偶然ではあるまい。

「検査チームの適合業者」――その言葉に、フィオは皮肉を含んだ笑みを浮かべた。「では、私の側でも準備のために質問させていただきたい。検査の方法と、音の評価基準を教えてください。技術的な証拠が必要です」

ベルクは、その問いに満足したらしく目を細めた。「評価基準は幾つかありますが、基本は楽器が公共に害を与えるかどうかです。大規模な合奏が不穏を生む、つまり群衆の動揺を誘導する恐れがあると判断されれば、演奏を制限し、保管命令が出ます。又、無届けの音楽活動が反乱の温床となった事例が過去にもある。秩序を守るために我々は動く」

過去の事例という言葉は、空気に重みを与えた。フィオはその「過去」の詳細を掘り返したくなったが、それはベルクにとって都合の良い反論材料を与えるだけだ。代わりに彼女は静かに、しかし確実に情報を引き出すための次の一手を打った。

「では、検査は公開ですか。市民も見られるのですか、それとも内務省のみで…」

「公開性はケースバイケースです。だが、混乱を避けるため現場では最小限の公開に留めます。必要であれば、店は一時的に閉鎖されるでしょう」ベルクの口元に、勝利を確信したような小さな微笑が戻る。

市民に知らせずに進め