異世界転生楽器職人の魔導師 第2話「第1章」
朝の光は薄く、通りの石畳をなぞっても、音を連れてこなかった。井戸の柄杓がぶつかる金属音も、店の戸を叩く客の足音も、どこかから消されているように、すべてが遠く薄まっている。フィオは作業台に肘をつき、指先でサクソフォンのネジを確かめながら、その空虚を確かめるように息を吐いた。
朝の光は薄く、通りの石畳をなぞっても、音を連れてこなかった。井戸の柄杓がぶつかる金属音も、店の戸を叩く客の足音も、どこかから消されているように、すべてが遠く薄まっている。フィオは作業台に肘をつき、指先でサクソフォンのネジを確かめながら、その空虚を確かめるように息を吐いた。
「今日も、静かね」と、台所から差し入れの湯気を運んできた若い女が小声で言った。フィオは顔を上げ、彼女の顔に浮かぶ緊張を見た。音がなくなってから、人々は声を潜め、笑いさえ身体の奥に沈めるようになった。それでも彼女はいつもと同じように店の簡素なカップを差し出す。手渡された陶器の縁の擦れる薄い音を、フィオはつい聞きたくなったが、やめた。ここはまだ、音を求める試しどころではない。
「ミレーナさん、待ってるよ」と彼女は言った。フィオはうなずき、手元の楽器に視線を戻した。入ってきた老婦人は、街角の小さな演奏会でいつもアルトサクソフォンを吹いていた。今は管に薄い布を巻き、息の通りを確かめるように掌を当てている。腕の先に残る年季と、指の節の白さが、彼女がどれだけ長く楽器と暮らしてきたかを物語っていた。
「直せるかい、フィオ?」老婦人は小さく唇を震わせて尋ねた。声はかすれ、普段より慎重だった。そこに言葉の重さがある。ミレーナはこの街の声の一端だった。フィオは彼女を見つめ、軽く頭を下げた。
「任せて。まずは調律とタンポの点検、それからリードの合わせをするわ。息の通りを取り戻しましょう」
老婦人は楽器を差し出すと、手を引っ込めて店の隅の椅子に腰を下ろした。窓の外、広場には背の高い旗が立ち、内務省の印が透けて見える。旗の周りを巡回する役人の影だけで、人々は会話を控える。『静寂の令』。言葉は空気に飲まれ、音は秩序の名の下で取られていった。
フィオは仕事着の袖をまくり、金属の締め具を外す。指が慣れた手つきでネジを回し、管の中を覗き込む。古い楽器は、生き物のように癖を抱えている。リードは少し反っている。タンポは擦れ、クラックが幾つかある。普通なら、呼吸とともに楽器は応える。だが今は、呼気の返りが薄く、音がまるで吸われたかのように消えていった。
「ここ数年で、音ってものがどれだけ人を結んでいたか、分かるようになった」とミレーナが呟いた。言葉は小さくて、店の空気に溶ける。だがフィオは、彼女の指が楽器の軸をなぞる仕草に、言い知れぬ痛みを見た。誰かの喪失をひとりで抱えているような手つきだった。
修理を続けながら、フィオは自分の能力を頭の中で確かめた。修理した楽器には、持ち主が言えなかった一言を「音色」として預かることができる。預けられた言葉は、楽器が鳴るときに、あるいは楽器自身が許される瞬間にだけ現れる。その一言を無理に鳴らそうとすれば、法則は反転する——フィオの耳が聞こえなくなる。禁忌の代償は明確だ。理屈の上では、彼女が自分の手で声を奪うのに等しい。
だが、目の前のミレーナは黙っていた。手には確かに言えなかったものがある。それをフィオは感じ取れる。修理を終えると、その言葉がそっと紡がれるかもしれない。だがそれは、ミレーナ自身がそれを聞かれることを望んだときでなければならない。さもなくば、フィオは自分の耳を代価にしてまで解き放つことはできない。守る対象は、まず目の前で助けを求めてくる人たちだ。フィオは、その掟を自分の胸で何度も反芻してきた。
最後のネジを締めるとき、サクソフォンのボディは少し冷たく震えた。まるで遠いところで誰かが息を止めたかのような振動が指先を伝う。そのとき、管の中から、かすかな、しかし確かな音が漏れた。笛のように輪郭のはっきりした音ではない。むしろ、言葉が音色に溶けてこぼれたような一瞬だった。
「……ごめんね。」
その音は、空気の上をひらりと滑り、椅子に座るミレーナの肩で消えた。フィオは肘を固く握りしめた。音は楽器自身が語ったのだろう。だが「聞く」ことと「鳴らす」ことは違う。ミレーナが望まなければ、それはただの影の化け物であって、フィオが掬い上げるべきものではない。
老婦人の目が潤んだ。年齢のせいではない、過去の何かが胸を掻きむしっている様子だ。彼女は唇を震わせ、言葉を飲み込むようにぐっと堪えた。フィオはその表情を見て、胸の奥が締めつけられるのを感じた。助けたい。だが助け方は慎重でなければならない。強引に真実を暴けば、相手の尊厳を壊すかもしれない。何より、自分の耳を失うリスクは、以後誰かを助ける力を永遠に奪うことでもある。
「ミレーナさん」フィオはゆっくりと言葉を選んだ。「今、管が何かを紡いだ。けれどそれは、あなたが許さなければ外には出ない。私はあなたの話を聞く。あなたが言葉にできるなら、ここで一緒にその音を出そう。急かしたりはしない」
ミレーナは指先で楽器の表面を撫でた。皺の寄った手に震えが走る。短く、しかし確かな決意がその目に戻ってきた。だが彼女はすぐに首を振った。
「言えないの……」その小声に、街の沈黙が重く覆いかぶさる。「言うと、また誰かが奪われる気がするの。私の言葉が誰かを困らせるなら、出したくないのよ」
フィオの胸は固くなった。言葉を失う恐怖は、音そのものを奪う恐怖と同じだった。内務省は、かつて一度だけ歌祭りで過激な抗議が起きたことを根拠に、『静寂の令』を導入した。秩序を守るため、あるいは恐怖を隠すために、人々の声は規制され、楽器は没収リストの上に乗った。だがミレーナの目に宿るのは、単なる恐れではない。何か深い後悔と、守るべきものを守りたいという意思だ。
「あなたが望まないなら、私は鳴らさない」とフィオは言った。しかし言いながら、胸の奥で別の衝動がうごめいた。もし今ここで一言だけでも明かせば、ミレーナにとっての重荷が軽くなるかもしれない。街の他の人々にも、失われた音の断片が帰るかもしれない。だがその一瞬が、彼女の人生を破壊する恐れもある。規則は、誰かの同意がなければ破ってはならないと告げる。耳を失うことよりも重いのは、他者の尊厳を踏みにじることだと、フィオは信じていた。
店の戸がわずかに軋んだ。外から足を止める気配がする。役人かもしれない。フィオは振り向き、窓越しに通りを見た。巡回の男が通り過ぎる。彼の手には没収命令書の端が見えたが、こちらには目を向けなかった。その安心は短く、街の空気は依然として張り詰めている。
「何か、助けてほしいのかい?」フィオは、もっと具体的に促した。自分にとって守る対象は、助けを求める人々だ。ミレーナが最初に手を差し伸べてくれたこの瞬間に、フィオは立ち上がってその約束を果たすべきだと感じた。
ミレーナは目を閉じ、深く息をした。小さな呼吸が、布越しに少しだけ聞こえたような気がした。その一息は、抑えられた記憶を引き出す鍵になるかもしれない。彼女はゆっくりと口を開いた。
「息子がね、若い頃にこの笛のことを大事にしていたの。彼は城の門前で歌っていたのよ。ある日、彼は連れて行かれて…私は声を出すことを恐れるようになった。言葉にすると、また奪われると思って。ごめん、フィオ。私は……私は言えないの」言葉はそこで途切れ、ミレーナは唇を噛んだ。
その瞬間、再びサクソフォンが