異世界転生城壁番の聖騎士 第5話「第4章」
壁の上は風がいつもより冷たかった。北門の石垣は、昼の熱を奪われて凍てつき、ひび割れが白い線となって浮かんでいる。トウマは足元の石を確かめながら歩いた。彼がしたいことはもう一つしかない──聞くことだ。聞いて、書き留めて、確かめる。何が起きたのかを、できるだけ多くの言葉で固めておくこと。言葉が集まれば、門の都合でころころ変わる「真実」を押し返せるかもしれない。
壁の上は風がいつもより冷たかった。北門の石垣は、昼の熱を奪われて凍てつき、ひび割れが白い線となって浮かんでいる。トウマは足元の石を確かめながら歩いた。彼がしたいことはもう一つしかない──聞くことだ。聞いて、書き留めて、確かめる。何が起きたのかを、できるだけ多くの言葉で固めておくこと。言葉が集まれば、門の都合でころころ変わる「真実」を押し返せるかもしれない。
阻むのは、人々の苛立ちと不安と、北門を取り仕切る司令が蒔く種だ。司令は「混乱の種は外から来る」と決めつけ、通行を厳格にすることで秩序を保つと言う。秩序のために声を奪い、記録を管理する。トウマはそれが恐ろしいと知っている。門は人を遮るだけではない。言葉を塞ぎ、記憶を擦り減らし、誰が何をしたかを簡単に書き換える道具になる──それを止めたい。
「トウマ殿、きょうはどの壁を見回ってきた?」声は下から上がってきた。壁下の広場に集まった避難民たちの輪の中に、書き手のセラが立っている。薄紙に墨を点し、羽根ペンを指に挟んだまま、彼女は目を細めてこちらを見た。セラは記録を書くことを仕事にしてきた女で、ここに残っている数少ない読み書きの能ある者の一人だった。自分の判断でここにいると、両手を勝手に伸ばすような態度を見せる。
「北の塔からここまで」とトウマは答えた。ついで壁の縁に置いてあった古い板切れ──内側に向く矢印が彫られ、何度も白く塗り直されている標識を指さした。「いつもの巡回ルート。矢印は……あの看板も、ここにあった」
広場では声があがる。老人が声を震わせ、若い母が手を叩いた。誰かが「違う」と叫び、誰かが「嘘だ」と返す。言葉はぶつかり、ぶつかるたびに不安が増幅してゆく。
「その夜、俺は見たんだ」若い男が前に出てきた。肩で息をし、目には涙が窪んでいる。「焚き火のそばで、小門のところで、あいつらが──彼らが子どもを連れて行ったんだ。司令の兵だ。俺は見た!」
「違うわ、あの時子どもは火傷で叫んでいたのよ。あなたは疲れていただけよ」中年の女性が割り込む。彼女は火事の夜、避難所にいたという。声は低く、確信を持っていた。「あなたは見間違えたの。小門を通ったのは荷車の連なり。司令の兵なんかいやしない」
議論は短く収まらない。人々は自分の記憶を強め合い、相手の言葉を削る。それでも真実はどこにあるか分からない。トウマはその場を見下ろしながら、能力が顔を出すのを感じた。壁に眠る血のような疼きではなく、自分の中にある規則の冷たさだ。
彼の能力は、彼自身がその日に見回った壁だけに効力を持つ。危険を感じた者の足元に、石の一時的な足場を生ませることができる。しかし――もし彼が誰を救うかを選び、味方と敵で区別するような意図を持つと、壁は内側から崩れ落ち、その痛みが彼の身体を裂く。選ぶことで壁が裏返しの刃となり、彼はその切っ先を受ける。選ばないことがルールであり、選ぶことが禁忌だ。彼はその代償を何度か受けた。短い刺すような痛み、石が歯を立てるような内部の痛み。ただの思い出であっても、喉元に引っかかる。
「救えないのか」誰かが叫ぶ。声は直接彼に向けられている。「あのとき、あの子だけを! いや、私たちの家族だけ! 選んで助けてくれ!」
選ぶことを求める目が、トウマに向けられる。彼は黙って首をふった。言葉は簡単だが、その重さは深い。
「選べない。選んだ瞬間、壁が崩れる。俺が痛むだけで済むならいいが、壁が崩れたら中にいる者すべてが危ない。俺は一人を特別にするつもりはない」
「でも、どうしてその規則があるんだ?」若い女性が問い詰める。その目は怒りと恐怖で紅潮している。選びたいという欲求が理解の裏返しであることを、トウマは知っている。自分の能力が限定されていることが、彼の責務を重くする。自分だけでは何も変えられない。その焦燥に彼らが結びついてしまえば、誰かが犠牲になる。
「なぜなら」とトウマは指先で標識の矢印を指し示した。「壁は境だ。境に刃を立てると、刃はどちらにも向いてしまう。俺が誰かを特別にすれば、それは壁の内側を傷つける合図になる。内側の痛みは、外側の安全と引き換えにされる」
彼の説明は満足を与えない。彼らはもう自分の正しさを見つけたがっている。それでもトウマは別の道を提案した。選ばない代わりに、言葉を選ぶのだと。
「聞く。全員の声を。記録する。誰かの言葉を一人で預からない。書くことと共有することが、選ぶことを代替する。証拠が集まれば、嘘は見透かされる。私たちは証言を同じ土俵に置く」
その提案は薄くも確かな希望を生んだ。だが実行は簡単ではない。記録を始めるためには用具がいる。セラが一歩前に出た。
「私が書く。書くけれど、ただ写すだけではない。口承でもいい。誰か一人の言葉で押し切るんじゃない。複数の証言を照らし合わせる方法を作る」彼女は羽根ペンを握り直した。「物証もつける。布切れ、焚き火の灰、荷車の車輪の一片。記録は身体的なものとつながっていると、誰も言い逃れできないから」
隣で大工のハデルがうなずいた。筋の通った筋肉で作業台を叩いた老人だ。彼の手は節だらけで、鍬や木槌で何十年も働いてきた。ハデルには記録の仕方が職人としての感覚でわかっていた。
「印を作ろう。記録ごとに小さな木札を作って、そこに証拠をくくりつける。誰がその証言に立ち会ったか、その人の印も彫る。だれかの言葉だけで終わらせないために、共同の“印”を増やすんだ」
トウマはその案を受け入れた。選ぶことは禁止だが、共に重ねることは許される。共同の行為は、壁を壊す刃にはなりにくい。彼は巡回の合間に、壁の傍らに古い木箱を置いた。箱は風雨で擦り切れており、内側に「共有」と鉛筆で走り書きがされていた。誰が書いたかは分からなかったが、その文字がぼんやりとした約束の役割を担った。
人々は順番をつくり、口を開いた。年寄り、子を抱く母、荷車を押す商人、火傷を負った少年。セラはひとりずつ話を聞き、トウマは静かに壁をさわっていた。彼は自分がその日に見回った壁の上でしか、足場を生ませることができない。だが今はその力に頼らない。力を使う局面は必ず来るだろう。だがもしそのとき、彼が選んでしまえば、すべてが崩れる。彼はその恐怖を胸にしまいながら、記録を紡いでいった。
証言は食い違った。ある男は「兵が小門を閉めて叫んだ」と言う。一方、別の女は「兵はただ小声で指示をしていた」と否定する。時刻の認識もずれている。ある者は夜半だと言い、別の者は夜明け前だと言う。名前は違い、服装もまちまちだ。トウマは丁寧にそれをメモした。セラは時刻のずれを示すために、夜と朝の空色を描いた。ハデルは小さな木札に車輪の破片を紐で括り、誰がそれを見たかを彫った。記録は音ではなく、物質となっていった。
「記録は二ついる」セラが突然言った。「一つはここに来た人たちの証言。もう一つは、外の者たちが持ち込む“公式”だ。両方を並べて、矛盾を見せる。官吏が言う“事実”と、ここにある“事実”を対照させる」
その二重の記録の思想は、場に緊張をもたらした。誰もが政府の記録を恐れている。記録を作ることは政府への挑戦にもなりうる。それでも、言葉を奪われるよりはマシだ