異世界転生影縫師の護衛騎士 第6話「第5章」
夕暮れの風が裏通りの埃を引き抜くと、セイは針を持ったまま黙っていた。掌の中で、古い毛布の縫い目が震える。やりたいことはひとつだけだ──縫い上げてしまいたい。明日の護衛で使う羽織のほころびを、夜の間に直しておきたかった。だが視界の隅でミラが荷物を確かめ、レナが出入口を睨む。守るべき人々がそこにいる。今自分がすべきは、縫い仕事の続きではなく、一行を安全に送り出すことだ。
夕暮れの風が裏通りの埃を引き抜くと、セイは針を持ったまま黙っていた。掌の中で、古い毛布の縫い目が震える。やりたいことはひとつだけだ──縫い上げてしまいたい。明日の護衛で使う羽織のほころびを、夜の間に直しておきたかった。だが視界の隅でミラが荷物を確かめ、レナが出入口を睨む。守るべき人々がそこにいる。今自分がすべきは、縫い仕事の続きではなく、一行を安全に送り出すことだ。
「セイ、時間がないよ」レナの声はいつもより固い。彼女は顔の右側に縦に走る古い火傷痕を触りながら、外の路地を見張っていた。痕の下で影が薄く揺れている。レナは影を裁かれた者の一人だ。見せるたび、彼女は自分が持つべきではない記憶を押し込めるように目を細める。
「心配すんな。短い道だ、こっそり行く」セイは針を置き、肩にかかる影を確かめた。そこはいつもより軽く、輪郭が少し滲んでいる。縫った者だけが感じる、影の鳴き声のようなもの。縫えば縫うほど、影は薄くなる。だが今は縫うことを避けられない。守る対象──この町に住む人々、そして最初に手を伸ばしてくれた者たち──が目の前にいるのだ。
「護衛は馬車の荷捌き場を抜ける。そこに小さな検問が出るらしい」情報屋のヤンが、小声で地図を指した。彼は肩に軽い聖職者のマークを模した布切れを巻いていたが、その目は算段に鋭い。ヤンの情報は的確だ。検問は裁定騎士団の手の者が定期的に回す場所の一つだった。
「私、行く」とミラが言った。彼女は日の当たらない幼さを残している難民の少女だが、決して無力ではない。ミラの手は震えていたが、言葉ははっきりしていた。「ここでじっとしているより、外へ出て働きます。私も、守れることをしたい」
セイはその目を見た。前世で針を握っていた時間が、彼に無言の教えを返す。守るという行為は、ただ救うだけではない。自分が救う相手に、選ぶ余地を残すことだ。彼は頷くと、短い手順を告げた。
「合意を取る。証人を二人。嘘をつかない。見張りはレナとヤン、行動は俺とミラ。みんなで声を合わせる。分かったか?」
「分かった」ミラの返事は震えない。
検問までの道は曲がりくねった古い石畳を抜ける。護衛の相棒は、小柄な商人の老男バルと、その妻。商人は背を丸め、腰をかばいながら歩いていた。彼らの荷には医薬品が混じっており、病人のいる孤児院へ運ばれるところだという。バルはこの街では有名な善人で、だからこそ検問で足止めされれば苦境に追い込まれる可能性があった。
「これが合意か?」セイはバルに近づき、低く言った。バルは目を伏せ、細い指で布を揉んだ。信頼の条件はいつも同じだ。誰かがセイの縫いを受けるなら、その者は本当の言葉を吐かねばならない。嘘は縫い目を刃に変える。
「君を信じる。私が本当に行くべき場所はここだ」バルは息を吸って頷いた。彼の言葉は真実の重さを帯びていた。セイは手をひらりと影に向ける。黒い糸ではない。見えない糸が空気を切るような感覚だけが掌に残る。彼は影のほつれを探り、針先でそれを拾い上げた。
縫う。針が通るたび、影の繊維がひとつひとつ閉じられていく。その瞬間、足元の影の上に薄い線が走った。誰の目にも見えるものではない。ただ、石畳の淡い黒が一瞬きしむように光っただけだ。だがセイは確かに感じた。縫い目が動きを支え、バルの歩が軽くなるのを。
「行け」セイは囁いた。縫われた影は一度だけ動きを支える力を持つ──彼の能力の規則だ。バルは顔をゆるめ、歩幅を伸ばした。妻が感謝の声をかける。通りの向こう、検問の影が見える。四人の男が角を曲がる。そのうちの一人が、裁定騎士団の標章を小さく縫い付けた黒い布を手にしていた。
通りを渡るとき、バルは急に立ち止まった。質問だ、と誰かが声を上げる。検問の男が鋭く詰め寄る。「お前たち、どこから来た。荷は何か」
バルはとっさに、世間話のつもりで口をついた。だが言葉が真実でなかった。便宜上、彼は花の商人だと答えたのだ。心の中で孤児院のことを思い、言葉を短く切った。セイの胸が凍る。縫い目に向かって、彼は自分の影が寒さに縮むのを感じた。
針先の感覚が変わる。縫い目が瞬時に固くなり、糸ではなく、冷たい刃の刃先のような痛みに変わった。バルの外套の端がきしりと裂け、袖口の布が浅く切れて血がにじんだ。幸いに、傷は大事には至らない。だがその切り口から、通りに立つ者たちの視線は一斉にそちらに向かった。
「嘘──」レナの声が低くなる。ヤンが素早く前へ出て、検問の男に金を差し出した。「荷は花だ、そうだろう。もう行け、さもなくば時間の無駄だ」男は疑いを持ちながらも金に目がくらみ、押し問答は短く終わる。
一行は無事に検問を抜けたが、セイの掌には冷たい汗が浮かぶ。縫い目は刃になった。規則は嘘を許さない。自身の能力の代償は影が薄くなることだけではない。守られた者の嘘が、刃となって周囲を傷つける──その事実が、彼の胸を鋭く刺した。
帰途、荷捌き場の隅でミラがバルの袖を抱き、包帯をあてがっていた。バルは申し訳なさそうに笑っている。「花の商人でいられなくてすまない。俺はいつも真実を躱してきた。年を取ると、嘘が楽になるんだ」彼の声には疲労と安堵が混じっていた。ミラは言葉にならない怒りを押し殺し、バルの手をしっかり握る。
「いいんだよ。今日渡せただけで十分」ミラが言う。その声音は本物だった。セイはほっとし、しかし背中の影の薄さをさらに認識する。自分がひとりで抱えるべきではない。力は惜しげなく振るうものではなく、共有されるべきだ。
その夜、男たちと女たちは古い倉庫に集まった。蝋燭の油煙が天井を曇らせる中、セイは仲間たちに向かって話し始めた。成功があっても、彼は一人で物事を引き受けることをやめると宣言した。
「これからは手順を作る。合意手順だ。縫われる者は必ず自分で言葉を発する。証人が二人はいること。縫いの後に責任を共有すること。嘘があれば、必ず償いをする仕組みを作る」セイの声は静かだが、場は重く頷いた。仲間たちは一様に、自分の役割を考え始めた。レナは監視役、ヤンは情報整理、ミラは物資の管理。誰もが自分の判断で動く。
訓練はまず言葉の取り方から始めた。セイはミラに向かって膝をつき、手を取った。「今から、真実の確認をする。誰かが嘘をついてしまったら、縫い目が刃になる。だから全部言って。痛みも恥も、出してしまうこと」ミラは深く息を吸い、涙を堪えた。
「私は王女ではありません。王女の替え玉にされるかもしれないと言われて、怖かった。だが、ここで嘘はつかない」ミラの言葉は小さかったが確かだった。セイはそれを認め、針先を影へ向ける。縫い終わると、影は柔らかく彼女の動きを支え、ミラは立ち上がる練習を繰り返した。力は僅かだが確実にあった。何度も何度も繰り返すうち、ミラの歩行は安定を取り戻していく。
次にセイは見張り役の若者タッシに「試験」を持ちかけた。タッシはやたらに勇敢を振るう年齢だが、実際にはまだ噛みしめる不安を隠していた。演習の場で、人前での嘘と真実を使い分ける訓練を行う。最後に、セイはあえて危険な実験を提案した。嘘をつけば何が起こるか、目の前で示す必要があったからだ。
タッシは震える手で頷いた。証人