異世界転生影縫師の護衛騎士 第5話「第4章」
夜の路地は、破れた垂れ幕の影が低く這っていた。セイは角を曲がるたび、足元の暗がりを確かめるように視線を落とした。今したいのは、裁定所の巡回表と指輪についての確かな目撃を得ることだ。妨げになるのは、灯火の下で目立つほどに自分の影が薄くなっていることと、相手の言葉が虚実を織り混ぜたときに起きる危険を回避すること。守る対象は、彼が名前をまだ教えていない小さな路地の共同体、そしてミラのように替え玉にされかねない人々だ。
夜の路地は、破れた垂れ幕の影が低く這っていた。セイは角を曲がるたび、足元の暗がりを確かめるように視線を落とした。今したいのは、裁定所の巡回表と指輪についての確かな目撃を得ることだ。妨げになるのは、灯火の下で目立つほどに自分の影が薄くなっていることと、相手の言葉が虚実を織り混ぜたときに起きる危険を回避すること。守る対象は、彼が名前をまだ教えていない小さな路地の共同体、そしてミラのように替え玉にされかねない人々だ。
「ここでいいのか、セイ?」
声は低く、裂けた屋根の下からだった。情報屋カリスは灰色のスカーフを口元まで引き上げ、目だけが鋭く光っている。以前、彼女は魚を一匹抱えて子どもを助け出した。彼女の信用は、人の命を賭けた小さな行為で測れる。だからセイは、彼女の影のほつれを縫えるかもしれないと考えたのだ。
「ここでいい。出入りを見張るなら、表通りよりも岸辺の倉庫だ。話は短くしてくれ」
セイの声はいつもの通り穏やかに震えた。カリスは身を乗り出して、骨のように細い指で小さな木箱を指した。そこに入っているのは客寄せの真鍮の牌と、細い黒糸の端切れ。セイの手が、条件反射のように黒糸に触れた。指先に伝わる冷たさは、針を握る前の匠のそれと似ていた。
「何を知りたいんだって顔をしてる」とカリスが笑った。「裁定所の夜の巡回、それと—その指輪のこと。噂は聞いたが、見たって奴は少ない。見たって言うのは、判事か、あるいは儀式に使う守り付きの手袋の持ち主さ」
セイは影を縫う前に、ひとつだけ条件を確かめたかった。彼の能力は、人が信頼を置く相手の影だけを縫える。信頼の所在は糸よりも弱いが、言葉よりも確かだ。カリスが子どもを助けたことを思い出すと、セイは首を軽く縦に振った。
「頼む。試してみたい。少しだけ、動きが安定するかどうか」
カリスは一瞬迷った。指輪の話と裁定所は危険をはらんでいる。だが彼女は、路地を見回しながら小さく頷いた。「お前を助けた子どもが、今もここにいる。お前がそれで動けるなら、…なら構わない」
セイは息を吸った。針と糸を取り出すと、日常の手つきで作業に入った。だがここからは日常ではない。彼が刺すのは布ではなく、影のほつれだ。針先が空気を切ると、そこにあったはずの暗がりが一筋、きしむように結ばれた。縫い目は見えるわけではない。だがカリスの足元に流れていた暗さが、まるで織り直されたかのように滑らかになるのをセイは感じた。
「おかしいな」とカリスが呟いた。「歩くときの引っかかりが消えた。…ありがとう。これなら外を回れる」
だが同時に、セイは胸の奥で軽い違和感を覚えた。針を引くたびに、彼の影が自分の輪郭をゆっくりと手放していく。路地灯の下、彼の影は壁に吸い込まれるように薄くなり、足先から消えかけている。彼はそれを手に入れられる代償として受け入れてきたが、毎度増すその恐れは消えない。
「お前、大丈夫か?」カリスが顔を覗き込む。彼女の目が、セイの肩のあたりで薄くなった影を確かめた。誰かの視線がそこに届いたのか、カリスの表情が一瞬硬くなる。
「少し疲れるだけだ。すぐ戻る」
セイは言葉を紡ぎながら、もう一本の針を針山に突き刺した。カリスの表情は複雑だったが、噂の指輪について話を始めた。彼女は口をつぐむところをわざとらしく隠したが、セイは、情報を小分けに渡す彼女の癖を知っている。信頼は波及する。情報屋の小出しは共同体の防衛にもなる。セイは縫いながら聞き取りを進めた。
「指輪は裁定所の儀式具だ」とカリスは低く言った。「黒糸でできたものだ。持っている者は影の断片を扱う権威がある。けれど…」彼女は溜息をついた。「昨夜、巡回の守衛が言ってたのは、指輪を触った者が勝手に情景を語るようになったってこと。けれど真偽はわからない。誰も直接見たがらない」
その言葉を聞いた瞬間、セイの針は小さく震えた。裁定所の儀式に実際に使われる器具——その情報は、彼が追っている欠片と、黒糸の指輪の意味を結びつける可能性がある。だがカリスはここで目を逸らし、別の話に移ろうとした。セイは相手の動きを見て、何かが隠されていると直感した。情報屋は自らの安全を優先しているのだ。
「言わなくていい」セイは針を止め、カリスの影の端を指先で確かめた。「お前に危害を加えたくない。だが真実は隠しておくには大きすぎる。俺たちは…皆、風に揺れるだけの布切れじゃない」
彼の言葉に、カリスは僅かに笑った。だがその瞬間、彼女の唇から出たのは微かな嘘だった。昨夜の目撃者は「増えた」という表現だけでなく、実際には一人見たと言い切れないという含みがあった。カリスは恐れていた。自分が知ることを言えば、裁定騎士団が路地を抑えに来るかもしれない。嘘は自己防衛だった。
嘘は、縫い目には刃となる。
セイはそれを知らなかったわけではない。だが信頼の上にしてきた行為は、いつもリスクも含んでいた。針を一針引くたび、糸が肌に触れ、空気が鋭くなる。次の瞬間、縫い目は震え、影の繊維がざらりと音を立てた。見えないはずの縫い目が、空気を切る刃と化した。刃はカリスの足下をかすめ、彼女のスカーフの端を裂いた。生の肉に触れたかのような鋭い痛みは、彼女の肩で止まった。カリスは声をあげて引き、コートの裾についた赤い筋が見えた。
「嘘をついたのか!」セイの声は、針を落としていた。刃は煙のように消えたが、路地に一瞬、冷たい臭いが残った。彼の胸の中で何かが崩れる。信用の判断を誤った代償は、誰かの血となって返ってくる。刃が触れたのは影だった——だが影に沿って走る刃は、本体にも影響を及ぼす。カリスの顔に驚愕が浮かんだ。彼女の手が血を押さえ、暗い線がスカーフににじむ。
「違う、違うんだ!」カリスは言葉を詰まらせた。「全部は知らない。見たっていうのは噂の一部…人々が話してるだけで…本当に見たって人間を知らないって、ほんとに…」
だが言葉の震えが嘘を明かしていた。セイの胸には鉄のように冷たい感触が走る。彼は相手を守るために使った能力が、その相手を傷つける結果を生んだことを知った。刃は一度現れると、回収が難しかった。彼は針を握る手に再び力を込めるべきだったかもしれない。だがその前に、世界が輪郭を欠いていくような感覚が襲った。
記憶の一部が、音を立てて崩れていった。さっきまでの会話、針を持った手の感触、カリスの顔の輪郭、どれもがぼやける。数分前に確かに握っていた黒糸の端が、指の間から滑り落ちる。彼は自分の名前を呼ばれても、それがどこから聞こえるのか分からなかった。目の前には血を抑えるカリスと、裂けたスカーフと、薄れかけた自分の影だけが残った。
「セイ! しっかりして!」カリスの声が遠く、けれど鋭く届いた。彼は自分が膝をついていることも、どうしてそこにいるのかも理解できなかった。記憶の欠落は、彼の能力を使った代償のひとつだ。糸を引くたびに、縫いで支えた相手の運動に合わせて自分の時間の端が削られていく。直前の数分は、まるで風に飛ばされた切れ端のように消えた。
「何が…起きた?」誰かが囁く。セイは視界の端で、長年路地で働く修理職人のダンの姿を拾った。ダンは古いコートを羽織り、ランプを傾けてカリスの負傷