異世界転生影縫師の護衛騎士 第3話「第2章」
路地の壁が近すぎる。閉ざされた石畳に、最低限の荷物とミラの息遣いだけが響いていた。セイはあちこちに貼られた巡回の知らせを確かめるために、小さく折りたたんだ紙片を握りしめたまま、舌打ちをひとつした。「今すぐここを出る。役人が来る前に、できるだけ遠くへ」——それが今、彼にできる最短の行動だ。
路地の壁が近すぎる。閉ざされた石畳に、最低限の荷物とミラの息遣いだけが響いていた。セイはあちこちに貼られた巡回の知らせを確かめるために、小さく折りたたんだ紙片を握りしめたまま、舌打ちをひとつした。「今すぐここを出る。役人が来る前に、できるだけ遠くへ」——それが今、彼にできる最短の行動だ。
ミラは肩をすぼめ、薄布を頭に巻き直す。泥だらけの顔に儚げな光が宿っていた。「連れて行かれるって、噂は本当なんですか?」声は震えていた。セイは首を振る。嘘ではない。噂は日に日に具体的になる。王都の使者が本当に来て、替え玉を立てる──そういう話だ。だが、言葉はそこまでだった。説明は無意味だ。今必要なのは動くこと、隠れること、そして――必要なら、彼の手で一度だけ支えることだ。
「ここを真っすぐ抜けて、運河の裏手──人の流れが多い所に出る。そこで混じる。質問されても知らん顔をするんだ。声は低く、表情は平らに」セイが短く指示を出す。ミラはうなずき、足元を確かめて歩き出した。だが一歩ごとに身体が震えるのがわかる。彼女の足首に昨日の負傷の跡が残っている。屈んだまま結んだ布の包帯の下、瘀血の色が見えた。そういうものを、彼は支えられる。
「信じてくれるか?」セイは問いかける。能力は信頼を媒介にする。対象が信頼しなければ、糸は縫い目を結べない。ミラは腕を差し出した。手の震えまで、セイは覚えている。だがその手は確かに彼の方へ伸びてきた。彼女の瞳の奥にある、意思の炎を、セイは見逃さなかった。
ぶすりと冷たい感触が胸の奥を掠めるような瞬間、セイは袖口から取り出した黒い小箱をひらいた。中には、細く漆黒の糸と、小さな銀の針が収まっている。糸は薄い光を吸い込み、指先に触れるとまるで冷たい水のように滑る。指輪──黒糸の指輪を、彼は食い入るように見た。これを手に入れてから、何度か役に立った。今日も道具であり、もう一つ何かを示す小道具でもあった。だが今それを示す余裕はない。彼は糸を通し、針先を影の輪郭へ向ける。
「いいか、目を閉じろ。自分の影を意識して」セイの声は低い。それは命令でもあり、祈りでもある。ミラは言われた通り、薄暗い路地の床に落ちた自分の輪郭を見つめる。灯りが弱い影は、往々にして粗末な布に似ている。ほころびが見えれば、それを縫えばいい。縫えば一度だけ、ぎこちない身体の動きを幾分か滑らかにできる。だがその代償は忘れてはならない。縫い上げるたび、彼自身の影が薄くなる。
針が影に触れると、耳元で小さな絹鳴りのような音がした。糸が引かれ、薄い黒い線が影の中を通っていく。縫い目は光を奪う手つきで、欠けを吊り上げ、ミラの歩幅をほんの少しだけ広げた。彼女は息を吐き、次の一歩を踏み出す。確かに、動きは滑らかになった。彼の指先に伝わる感触に、かすかな抵抗がある。影と影を結ぶ感覚──それは温かくもあり、吸い出すような冷たさでもあった。
周囲の空気が重くなった。彼の足元で自分の影が、まるで蝋が溶けるように薄くなっていくのがわかる。薄さは色であり、重さであり、存在の輪郭だ。影が薄くなると、彼はどこか世界に対して透明になる。触れられるけれど、反論する力が失われる。セイはその冷たさが胸の中に流れ込むのを感じたが、今は止められない。ミラのための一度だと、自分に言い聞かせるしかなかった。
路地の出口で、何かが起きた。鉄の足音が石畳に当たり、低い鳴動が広がる。役人の一隊だ。蝋燭を掲げた巡査の列、そしてその後ろに、半ば装甲を着けた裁定騎士が三人。彼らの所作はぎこちなく、しかし凛としていた。胸に刻まれた紋章が暗い光を捉える。セイの指先に触れた黒糸の指輪が、急に重くなったように感じられた。あの紋とどこかで紐づく気配がある。彼は無意識に指輪へ視線を落とす。指輪の側面に刻まれた細い線が、巡査の胸の紋章と同じ波形をしている。
「ここに立ち止まれ。通行証を見せろ」役人の声は柔らかだったが、それは取り締まりを始める鐘の合図に等しい。列の先頭の巡査がミラをまっすぐ指差す。ミラの顔から血の気が引けるのがわかった。セイは口をきかないまま、彼女の袖をぎゅっと握った。信頼があったから縫い目は効いた。だがそこにもう一つ、脆い要素がある。嘘──それが糸を刃に変える。
「何者だ、お前は」巡査が問う。質問は単純だ。だがその瞬間、ミラの表情が変わった。彼女の目は見開かれ、喉が詰まる。答えは、どれを選んでも、誰かを傷つけ、あるいは自分を危険に晒す。彼女の唇が震え、言葉を探す。セイは口を開こうとしたが、間に合わなかった。ミラは小さな声で、震えながら言った。「あ、私は……街の行商の娘です」
それは、事実ではない。彼女は行商の娘ではない。だが、即座に出た言葉だ。恐怖のあまり、簡単な嘘をついたのだ。
針仕事の糸に震えが走った。影の縫い目が、ほんの一瞬だけ尖り、鈍い金属感を宿した。ミラの影の縁から、細く、黒い刃が生えるように見えた。刃は空気に触れると、骨のように冷たく、すぐ隣を通る巡査の灯籠の紐を切り裂いた。蝋燭の炎が揺れる。騒然とする声。刃は、ミラ本人の影の側面を撫で、瘀血のところに沿って薄い線を刻んだ。彼女は足を止め、痛みで声を上げた。現実の肉が、影の刃と呼応して切られたかのように、膝の内側から熱い痛みが走る。
セイの手が針を握り直す。刃になった縫い目は、彼の意思ではどうにもならない。嘘が糸を変質させるのだ。だが、その刃は同時に、巡査の靴紐や騎士の靴の革を切り裂いて、足元に混乱を作った。混乱は、逃げる隙を生む。燭台が倒れ、巡査の一人が転ぶ。裁定騎士たちが刃の正体を見極めようと硬い声を上げる隙に、セイはミラの腕を取り、走り出す。
「来い、走れ!」セイは叫ぶ。縫いは一度だけ、彼女のぎこちない動きを支えたが、刃へ変わった部分はその支えを残している。ミラは痛みに顔を歪めながらも、足を動かした。二人の影が石畳の上を歪んで伸びる。だが走るごとに、セイは自分の影がさらに薄くなっていくのを感じた。さっきはぼんやりしていた輪郭が、今では部分的に消えかかっている。路地の灯りが彼の膝の影を抜け、背後の壁に残る輪郭がすきま風のように裂けていく。
逃走路の角で、仲間の誰かが仕組んだ小さな騒動が始まった。屋台の鍋がひっくり返り、叫び声が上がる。石を投げた者が役人の注意をそちらに引きつける。事前に仕組んだ賄賂の札入れが、見つかったふりをして、巡査の目を惹きつける。嘘も道具も混ざり合い、混乱の渦は成長した。セイの縫い目が刃となってしまったのは想定外だが、その刃が生み出した混乱は、結果として彼らに隙を作った。
だが代価は確実に払われた。ミラは痛みで唸り、数歩を踏んだ瞬間に足を引きずるようにして止まる。布の包帯が血で濡れている。セイはすぐにその場で膝をつき、縫い目の先端がどうなっているのかを確かめた。影の刃は再び淡くなり、縫い目に戻っていくが、跡は残る。ミラの影に刻まれた小さな切痕は、彼女の歩き方をぎこちなくし、肉体にも痕を残した。
「大丈夫?」セイが聞くと、ミラは唇を噛んで小さく首を振る。答えは否定だ。だが彼女の目には、逃げ切ったという意志の光がある。セイはそれを見て、胸の中で複雑な何かが蠢くのを感じた。