異世界転生影縫師の護衛騎士

異世界転生影縫師の護衛騎士 第2話「第1章」

夜の路地はいつもと違って、息を潜めていた。軒先に吊るされた油紙の灯りは風に揺れて、影を地面に引き伸ばす。だがその影の端が、明らかにほつれていた。糸が千切れかけた布の縁のように、そこだけ輪郭が不定形になっている。セイはそれを見て、手にしていた小さな針をぎゅっと握りしめた。今、彼がしたいことはただ一つ――この路地の誰かの、壊れかけた足取りを一度だけ支えることだ。だが前には役人の目と、もっと深い恐怖が立ちはだかっている。

夜の路地はいつもと違って、息を潜めていた。軒先に吊るされた油紙の灯りは風に揺れて、影を地面に引き伸ばす。だがその影の端が、明らかにほつれていた。糸が千切れかけた布の縁のように、そこだけ輪郭が不定形になっている。セイはそれを見て、手にしていた小さな針をぎゅっと握りしめた。今、彼がしたいことはただ一つ――この路地の誰かの、壊れかけた足取りを一度だけ支えることだ。だが前には役人の目と、もっと深い恐怖が立ちはだかっている。

「セイさん、お願い。あの人たち、うちの子を連れて行くって……」灯りの下で、小さな女がひとり声を震わせた。難民の布をまとった女性——ミラだ。彼女の指は震え、唇はかすかに割れている。セイの胸の奥がきしんだ。何度も針を通した手は、反射的にミラの足元へ目を落とした。ミラの影もまた、片方のくるぶしあたりで糸がほどけたように見えた。そこから先、影の形は断続的に途切れていた。

「大丈夫だ、ここに居ろ。黙って、俺の後ろに隠れていろ」セイは声を低くしてそう言うと、奥の小さな物陰へミラを押し込んだ。だが言葉に自分の意志を込めるのは容易ではなかった。路地の向こう、石畳の終わりに人影が見えた。裁定騎士に似た服装の者が三人、ゆっくりとこちらへ向かってくる。彼らの一人が懐に光る、黒い指輪の紋様を見せつけるかのように手を振ったのが、セイの視界に入った──黒糸の指輪。彼は思わず唾を飲んだ。指先に、かすかな寒さが走る。

「まただ。替え玉かもしれぬ」と、向こう側の家の年長者が小声で呟く。集まった者たちの顔には疲労と諦観が滲む。ある女が低く言う。「去年も、あの時間に――市役所の使者が来た。子どもを三人連れて行った。置いてきたはずの孫の影が、翌日には向きを変えてた。家にあった座布団の中に、代わりの影が縫い込まれていたって聞いたよ」その言葉に路地全体の空気がさらに重くなる。影で身分を裁くという制度の話は、忌まわしい寓話のように、しかし日常として人々の胃を締め付けていた。

セイは急に、手の中にあるものを確かめた。黒糸の指輪ではない。先に見つけて、ずっと掌で温めている小片――黒い糸を縒ったような、細い丸環だった。硬貨ほどの大きさで、表面には誰かの小さな紋章が刻まれている。彼がそれを見つけたのは、数日前に誰かの荷物をあさったときだ。指輪のようでいて、織物の端に結んであったまま残されていたもの。触れるといつも、針を握る手に似た温度が伝わる。今、その温度は鋭く、胃を突いた。

「セイ、あんたは何でも直すって言うて……」隣の家の少年が、震える声を上げた。彼の母親は赤ん坊を胸に抱えている。赤ん坊の影は、他の影と同じように地面にあるはずだが、その輪郭は不自然に狭く、ほとんど消えかけていた。彼女が目に見えない何かを奪われる恐怖が、その赤ん坊の親の瞳に宿る。セイは膝をついて、少年の目線に並んだ。

「俺にできることは限られてる。だが、もし助けを求めるなら、俺は守る。ここにいる者で、最初に手を差し伸べる者を――俺は守る」言葉が出てしまったのは無意識だった。だがその宣言は、夜の空気に小さく確かな音を作った。囲んだ人間たちの顔が、少しだけ引き締まる。彼の言葉は、奇跡の約束ではない。約束というよりも、彼が自分に課した単純なルールだった。能力は万能ではない。使えば自分の影が薄くなる。使う相手が嘘をつけば、縫い目は刃になる。だから彼は、最初に求められた者を守ると決めることで、混乱と誤用を避けようとしていたのだ。

「セイさん……私、嘘はつかない」ミラが、奥からかすれた声で出てきた。彼女の瞳は真っ直ぐで、嘘をつく余裕などないという傷の匂いを確かに漂わせている。セイは彼女をじっと見る。信頼とは、行為の前に来るものだ。彼は無理に大それた忠誠を期待しない。ただ、その場で嘘をつかないということ。それだけを確かめられれば、針は動く。

セイは腰の小袋から細い銀の針を取りだした。それは普通の裁縫針ではない。目に映るのは普通の針だが、彼にとっては影を縫うための道具だ。針先に黒い糸を引く。糸は普通の糸ではない。夜の湿り気から引き出したような色をして、灯りの中で吸い込まれるように黒い。彼は手の震えを抑え、呼吸を整える。縫うには集中が必要だ。相手を「信頼する」気持ちが、自分の内側で確かな線を生む。嘘の匂いが混じれば、縫い目は硬く、鋭くなる。彼は自分の中で、それを常に意識していた。

「動きたくないか?」セイはミラに小さく尋ねた。彼女は首を振る。口元に青い歯痕が残り、足取りは自信がない。路地の外には、裁定騎士の靴音が近づいている。時間はない。セイは片膝を地面につけ、影の端を指先でなぞった。指の腹が冷たくなる。影は触れても冷たくはないはずなのに、そこには布の端を触るような感触があった。彼は糸を通して、影のほつれの根元に針を落とす。

縫う――という言葉がぴたりと場面と噛み合う。針は影の内部を滑り、糸が幾度か庭の縫い目のように繋がっていく。だがその縫い目は、光を吸い、音を殺す。針が進むたび、セイの肩から背中にかけて軽い冷えが走った。自分の影が薄くなるのがわかる。地面に映る自分の形が、少しずつ輪郭を失い、埃のように淡くなる。彼は手を止めることができない。縫い目が一つ、二つ。ミラの影がゆっくりと、しかし確かに整っていく。

「走れ」セイは短くそう言った。ミラはぎこちなく立ち上がり、しばらく躊躇したが、やがて足を前に出した。その足取りは最初ぎこちない。彼女の膝はまだ痛む。だが一歩、確かな一歩が出た。縫いが与えたのはその「一度だけの動き」だ。ミラはもう一歩、勢いをつけて走り出し、曲がり角を曲がって闇に消えた。裁定騎士の影が路地に差し込んだが、民家の呆然とした視線はひとつの救出を目撃していた。

代償はすぐに返ってきた。セイは背中に重い虚脱感を覚えた。自分の影はさらに薄くなり、足元の輪郭がほとんど消えた。人々の顔が遠く見える。彼は視界の端で、自分の影を探した。かつてはそこにあった濃い黒が、今は水で濡れた墨絵のように滲んでいる。年長者が「セイ……」と声を上げた。少年が母を押しやりながら、「逃げろ!」と叫ぶ。路地を封鎖するように見えた裁定騎士の一人が、何かを呟いた。彼の懐の指輪が、月のない庭で光る小さな星のように見えた。

「大丈夫か、セイ?」少年の声が呼びかける。セイは笑って首を振った。笑顔は薄紙一枚で、風に吹かれて破れそうだった。「これで、こいつらが来る理由が減るとは思わない。だが、今は――」言葉を切り、彼は自分の決意をもう一度確かめる。守る対象。路地の顔ぶれ。最初に手を伸ばしてきた者を守る。その選択は、能力を使う際の彼の鎖でもある。独断で救うのではなく、最初に助けを求めた者に手を貸す。それが、嘘の刃を避ける一つの方法でもある。

「ここに置いていけ、証拠を残すな」年長者が差し出したのは、小さな布片だった。そこには黒糸の指輪と同じ紋章が、擦り切れてはいたが織り込まれていた。彼の指が震え、言葉が震えた。「これ、前に見た。使者が落したんだ。あの時、家の中に入ってきて、影を触っていた……」集まった者たちの視線が一斉に黒糸の紋章へ向かった。セイはその布片を手に取り、匂いを嗅いだ。古い油