異世界転生影縫師の護衛騎士 第12話「第11章」
「今晩は、この路地を眠らせるわけにはいかない。」
「今晩は、この路地を眠らせるわけにはいかない。」
セイは戸板を叩くように短く言った。声には疲れが混じっているが、言葉の端は確かに硬かった。彼の前には、藍色の布をまとったミラが腰をかがめて震えている。後ろには、縫い子の老女ロッサ、元港の見張りだったカルン、屋根裏で情報を集める小男エイといった、街の顔役たちが静かに並んでいた。誰もが眠気をこらえ、今の瞬間にかける。
「あなたはどうしたい、セイ?」ミラの声は風邪の残るような細さで、しかし確かな重みを帯びていた。替え玉にされそうな少女に向けられた問いは、そのまま彼の意思の確認だった。
セイは指先で自分の胸を触った。そこにあるのは決意ではなく、影の薄さを感じる冷えだ。だが口は笑みの形を保って答えた。「ここで逃げるんじゃない。公の場で、替え玉の口実を剥がす。君が、君自身の言葉で話すんだ。俺はその歩みを一度だけ支えるだけだ。」
カルンが鼻を鳴らした。「一度きりって、またお前の影が薄くなるんだろうな。いつまで持つ、セイ。」
「分からない。」それをセイは躊躇なく認める。「でも、今回はひとりで抱えない。みんなで証言を集め、証拠を示して、替え玉を拒否する選択肢を作る。俺の縫いは最後の補助だ。」
ロッサが手のひらを合わせるようにして小さく笑った。「あんたらしいよ。人を助けるのに、誰もかれもがあんたを祭り上げるつもりはないってね。」
窓の向こうで遠く鐘が一つ鳴った。夜の空気が引き締まる。彼らが動けば街は見てくる。音は既に巡回の合図で、裁定騎士が近いことを示していた。
「相手は小さな裁定士の一団。法の執行を名目にして、ミラを王女の替え玉に差し出すってんだ。今夜、最終確認をするらしい」エイが低い声で告げる。情報の量は多くないが確かなものだ。役人が証拠を提示し、目撃者を供述に縛る。裁定の場で"影"を見せ、差異を「正す」ための替え玉が成立する仕組みだと、エイは一息で説明した。
ミラの手が震えた。だがその震えは、恐怖と同じくらい怒りを含んでいる。「私、嘘はつかない。王女だなんて、そんなこと、言えない。」
「それでいいんだ」セイは柔らかく頷いた。「君の影を縫うには、君の信用がいる。嘘があれば、縫い目は刃になるって、前に言っただろう? 今回は、君が事実を語るなら、俺は君の足取りを支える。嘘があれば、俺は縫わない。」
ミラは唇を噛んだ。彼女の瞳には迷いの光が走ることがあるが、その夜は決意が固まっていた。「私は、私のままでいたい。王女になどなりたくない。誰かのために己を差し出すくらいなら、逃げる方法を探すか—でも、もう、逃げたくない。言う。全部話す。」
その言葉を聞いて、セイの胸の中で何かが鋭く疼いた。彼は以前なら、喜びをささやく自分の声で満たされたかもしれない。だが今は違う。彼の影が薄くなっている感覚がいつもより重い。縫いをする度に薄くなるその感触は、彼の存在を確かめる指標だった。
「準備はいいか?」セイはミラの肩に触れた。触れた瞬間、彼女は小さな鳥のように身を固め、そして自分から彼の手を取った。信頼の印だ。彼の能力は、信頼でしか作動しない。無理矢理縫えば刃になる。相手が嘘をつけば刃になる。それは単純で残酷な掟で、彼はそれを何度も実感してきた。
路地の向こうで足音が近づく。裁定士の一団がやってくる。彼らは黒く縁取られた指輪のような紋章を身に付けている。セイはその紋章を見て、小さな怒りと確信を同時に覚えた。先日、彼らの装束から見つかった布片に黒い糸の断片が絡んでいた。あの糸と、指輪の紋章の縁取りとが重なって見えたのだ。
「黒糸……やはり関係があるのか」セイは小声で呟いた。ロッサの顔が硬直した。
「指輪を見つけたのはカルンだ」エイが言った。「裁定士の一人が急に走り去ったとき、その留め具が外れて落ちた。俺たちが拾った。黒糸で縫われている。儀式で使うものかもしれない。」
カルンは肩をすくめて、しかし誇らしげに指輪を懐から取り出した。月明かりにわずかに黒い線が光った。誰もがそれに目を吸い寄せられる。指輪は単なる飾りではない、何かの機構だった。セイは知らぬうちに指先に力を込めた。糸の匂い、儀式の匂いが彼の鼻を刺す。黒糸は以前に見た、裁定騎士団が影の形を「正す」ために用いる縫製の残骸と同じ匂いだった。
「今夜は時間がない」セイは短く告げ、皆に役割を割り振った。ロッサは人々をまとめ、証言者のリストを最終確認する。カルンとエイは外周で偽装した群衆を配置し、裁定士の動向を探る。ミラは自分の言葉を練る。セイは自分が最後に出ることを皆に告げた。「俺は表舞台には出ない。俺は縫いをするだけだ。舞台は君たちのものだ。」
だがセイの内部では別の声がうずく。影が薄くなる恐怖と、それでも人を失わせたくないという責任。彼の前に広がる世界は昨日より狭く、脚下の自分が掘り下げられていくのを感じた。
数刻後、広場には既に人垣ができ始めていた。裁定士たちが到着し、法の書を広げ、裁定の儀を始める。彼らの一人が、ミラに向かって嘘の線を引こうとした。「我が証人は、君が王女の血筋を示す埋め印を認めたと申し立てる」と、高圧的に言う。だがロッサの一団はせり出し、集めた証言を次々と読み上げた。子供を替え玉にした過去の記録、家族から引き離された者の名前、彼らが強制された交換の痕跡。場内は次第に裁定士の声に針を刺すようにざわめいた。
ミラの順番が来た。彼女は震えながらも壇に上がり、真実を吐いた。彼女の言葉は静かで、しかし深々とした説得力があった。替え玉にされたときの感覚、強制された笑顔、身体と影に残る違和感。聴衆の中にいた幾人かの目が赤くなった。セイはミラの側で、ただ片手をおいていた。彼の手がその温もりを確かめると、彼は縫う準備を始める。
影を縫うとき、彼は言葉を交わす必要がある。相手の信用を確認し、彼らの承諾を得る。ミラは深呼吸して目を閉じ、そして小さく頷いた。セイは針を取り出した。黒光りする糸とは異なり、彼の使う糸は灰色に近い細い糸だ。だがその運針は、影と実体とを結ぶ行為であり、言葉よりも重い宣言だった。
針が影の縁に入ると冷気が走る。縫い目は音を立てない。だがセイは毎回、針が通るたびに自分の影が薄まるのを感じる。皮膚の下を風が通り抜けるような感覚、存在の塩分が抜け落ちるような喪失。今回は、いつもよりその感覚が速かった。縫い目を一つ打つだけで、足元の黒さが皺のように消えていく。彼はそれを押し留めながら、もう一針、もう一針と進める。
ミラの歩みが安定していくのが分かった。彼女は震えながらも決然と壇を進み、目の前の裁定士の顔をしっかりと見据えた。彼女の影は以前のように欠けたままではあったが、動きが一度支えられたことで自然さを取り戻していく。
だが縫いは途中で妙な抵抗を感じた。針先が何かに触れ、冷たい刃のような痛みがセイの掌を貫いた。それは、縫い目が刃に変わる一歩手前の予兆だ。彼は一瞬で悟った。相手の言葉に歪みがあったのか、あるいは彼自身に無意識の恐れが混じったのか。だがミラの顔は真実を語る真摯なものだった。セイは深く息を吐いて、手に力を入れ直した。刃になる前に縫い目を完成させ、縫いを終えた。