蒼天の雛竜と星喰いの王国 第7話「第六章」
旗は揺れていなかった。空気が風を忘れたかのように、隊列の周囲だけが静止している。鼓の音も、馬のいななきも、兵士たちの息遣いさえも──薄く張られた硝子の内側で止まったように、時間が凍っていた。ヴァルドは自分の手が震えているのに気づいた。革の手袋をきつく握りしめると、鼓動が指先に返ってきて、彼はそのリズムを頼りに立っていた。
旗は揺れていなかった。空気が風を忘れたかのように、隊列の周囲だけが静止している。鼓の音も、馬のいななきも、兵士たちの息遣いさえも──薄く張られた硝子の内側で止まったように、時間が凍っていた。ヴァルドは自分の手が震えているのに気づいた。革の手袋をきつく握りしめると、鼓動が指先に返ってきて、彼はそのリズムを頼りに立っていた。
「灰翼の幼竜、捕縛。公の場にて処分に付す──以上、王命。余輩はこれを執行すべし」
通令は冷たく、簡潔だった。だが胸に刺さった矢は、言葉よりずっと複雑な形をしていた。ヴァルドは一度、妹の名を呟いた。低く、誰にも届かない声で。名前は空気の中で小さく鳴り、すぐに消えた。彼はそれを追わず、前方の村へと視線を戻す。
ここは、城下からひとつ谷を越えた農村。先の報告によれば、音と色を失った地域の中心がこのあたりで見られたという。彼の軍は罰としての処刑台と証人を求めている。灰翼──王たちが忌む失敗種が、天輪を蝕む不吉な出来事の元凶だというのが、ヴァルドの信じる真実だった。妹の最後の夜、瓦礫の下から聞こえてきた小さな声と、灰色の翼が空を裂いた記憶が、彼の判断を何千もの宣言よりも重くしている。
馬を下り、足を踏みしめると、地面の冷たさが生々しく伝わってきた。兵士たちの列は整っている。彼らは、命令に従う者としてここにいるが、同時に人間として恐怖を抱えていた。顔に出さぬまでも、額に浮く汗にその気配が見える。ヴァルドは部下の一人、ロランの肩に軽く触れた。ロランは目を伏せ、かすかにうなずく。
「この子らを見張れ。民は動かすな。幼竜を捕え、王に引き渡す。証は──ある」
彼の声は低く、しかし確固たる命令だった。だが、その命令が完全な真実かどうかを確かめるために、彼自身の足は村の中央へと向かった。そこでは、井戸端に小さな群れができていた。年寄り、母親、半ば放心した子どもたち。誰かが歌を口ずさんでいる。歌は欠片になっていて、ひとつひとつが断片的にしか繋がらない。だが、その断片を集めると、ある夜に消えた妹の口ずさみと、旋律が重なった。
胸の奥に冷たい何かが疼く。ヴァルドは顔を顰めた。彼は軍人であった前に、兄であった。妹の眠るような笑い声、眠りにつく前に小さく吹いた風鈴の音、彼女が手で編んでくれた毛布の端に残る糸の匂い──断片はいつも、決定を鈍らせる。だが彼は覚悟している。感情は判断の敵だ。妹の歌は消えた。灰翼はそれと関わる。結論は単純だった。だからこそ、他の道は許されない。
群衆の向こう、井戸の縁に小さな影が座っていた。灰色の毛羽、左右非対称の翼、そして人間の子供のように傍らに寄り添う少女──その少女が、名門の家紋も何も着けていない薄い灰色の外套を掴んでいるのが見えた。たしかに、彼女は小柄だ。目つきは浅黒く、しかし何かを見抜くように冷たい。ヴァルドは胸の中で、ちくりとした感情を押し殺した。家名や紋よりも、事実だけを見ればよい。
足音を立てずに近づく間、彼は村人たちの視線を拾った。恐怖と、同時に救いを求める何か。少女と幼竜の周囲だけに、かすかな静けさが漂っていて、それが逆に目立っている。それは、嵐の前の静寂と似ていた。ヴァルドは一瞬、前世の夜を思い出した。妹が窓辺で歌っていたあの夜、周囲が急に音を失い、世界が押しつぶされる寸前のあの静けさだ。彼は拳を固める。あの静けさの原因を叩き潰してやると。
「そこで止まれ」
ヴァルドの命令は、村の空気に割り込んだ。少女と幼竜は顔を上げる。少女の眼が、彼をまっすぐ見た。色の無い瞳だったが、その中に悔しさと決意が灯っているのは誰の目にもわかった。ヴァルドはその瞳に、妹のそれを見出そうとする自分を恥じた。だが彼は押しとどめなかった。
「軍の者だ。動くな」
兵士が囲む。幼竜は背を丸め、無言のまま肩で息をしている。何も怒らない。何も威嚇しない。ただ、周囲の欠落を見つめていた。ヴァルドは幼竜の目を覗き込む。そこにあるのは、退廃的な空虚でも、破壊衝動でもなかった。幼竜の目は、むしろ迷いと恐れで満ちていた。彼の胸に、理屈ではない、忌まわしい違和感が流れた。彼はそれを振り払った。
「確保する。兵、距離を保て。せいぜい刺激しないこと」
ロランが合図をする。兵は縄と網を準備し、誘導灯の先を照らしている。ヴァルドは一歩前に出た。村人の群れの中で、ひとりの幼い男の子が顔をあげ、唇を震わせながら歌を口ずさんでいた。それはかすれた旋律で、言葉は断片的だが、確かに彼が知らぬはずの歌だった。幼竜が吐息を漏らすと、その断片が流れのようにつながり、男の子の歌がひとつの節を取り戻した。村は一瞬、息を呑んだ。
音が戻る。小さな旋律が村の空に空白を縫うように浮かび上がり、色が戻るように見えた。誰かが歓声を上げ、誰かが顔を伏せた。ヴァルドの耳には妹の声が混ざって聞こえた。微かな、かつて聞いたことのある高い声。胸の奥が揺れ、彼は一歩踏み出しかける。理性と記憶が衝突する瞬間、時間が歪むように見えた。鼓の音がどこか遠くに消え、世界は一拍、静寂を許した。
その一拍の間に、ヴァルドは全てを見抜いたと錯覚した。幼竜の共鳴は、人の失った記憶を針でなぞるように拾い上げ、確かな音の欠片を返す。だが、そんな優しげな行為がなぜ災厄になるのか。彼の心は答えを求めた。子供の歌は妹の声を呼び戻すようでもあり、同時に薄氷の上を踊る足音のように不安定だった。もしその力が多くの声を吸い上げ、集め、何かを形成するための燃料になっているとしたら──
言葉にならない恐怖が、胸の奥で再び膨れ上がった。ヴァルドは思わず額に手を当てた。思考が繋がる。灰翼は異質な音の網を作る。星喰いは、色と音を吸って空を喰らう。もし幼竜の共鳴が始まりであるならば、彼らは黙っていられない。なにより、妹の残りの記憶がどこへ行ったのかを確かめねばならない。彼は牙を剥くように決意を固めた。
その時、井戸の縁で光ったものがあった。黒く薄い鱗のかけら。誰かが蹴ったのか、あるいは幼竜の翼の間から零れ落ちたのか、それは小さく、しかし確かな存在感を放っていた。ヴァルドの視線はそこで止まった。手が、知らずのうちにそのかけらを拾い上げていた。金属の冷たさよりもむしろ、吸い込まれるような温度だった。鱗は光を失っているように見えたが、触れた瞬間、彼の頭の中に断片的な映像が流れた。
妹の笑顔。瓦礫の下の暗闇。黒くうねる影が空をかすめた夜。記憶は混ざり、現実と幻が重なった。だがその鱗は、ただの物質ではなかった。皮膚の下を這うような振動が、薄く、だが確かに鳴る。ヴァルドは顔を顰め、握った拳を更に固くした。かけらを懐に滑り込ませると、周囲の音がまた歪み始める。幼竜の眼が、まるでそれを知っていたかのように揺らいだ。
「やめろ」──衝動的に、彼は自らの声で命じた。幼竜に届くように、また群衆に聞かせるように。だがその声の震えは、彼が隠そうとする本当の恐れを曝け出していた。幼竜は頭を下げ、額を差し出すようにして吠えた。小さな喉から、再び音が漏れる。だが今度は、歌を返すだけではなかった。小さな波が人々の胸に触れ、不在の名前を呼び覚ます。ある母親は、泣きながら自分の娘の名を思い出した