灯を継ぐ聖女は、痛みの名前を知っている 第10話「第九章」
土のにおいが濃くなる夕方、リゼットは村長の家の前で立ち止まった。小さな家は雨で滑る泥道の一角に寄り添うように建ち、屋根の棟には藁の切れ端が無造作に載っている。表の戸は半ば開き、黄ばんだ紙が風に揺れていた。中からは、湯の湯気と古い木材がこすれる匂いが漏れてくる。それは、前世で夜勤を終えて病室から帰るときに嗅いだ匂いと重なった。リゼットは一度深く息を吸ってから、ゆっくりと戸を押した。
土のにおいが濃くなる夕方、リゼットは村長の家の前で立ち止まった。小さな家は雨で滑る泥道の一角に寄り添うように建ち、屋根の棟には藁の切れ端が無造作に載っている。表の戸は半ば開き、黄ばんだ紙が風に揺れていた。中からは、湯の湯気と古い木材がこすれる匂いが漏れてくる。それは、前世で夜勤を終えて病室から帰るときに嗅いだ匂いと重なった。リゼットは一度深く息を吸ってから、ゆっくりと戸を押した。
部屋の奥、畳の上に座る男の背中は思ったよりも小柄で、肩は丸く落ちていた。年の割には皺深く、髪もかなり白い。膝に広げられた膝掛けの上に、茶碗と湯冷ましの瓶が並んでいる。彼が顔を上げた。目は疲れているが、じっとこちらを見据えていた。
「来てくれたか、聖女殿」――言葉は簡素だが、どこか張り詰めた糸のように震えていた。
リゼットは浅く会釈した。彼女は聖女を名乗る者ではあるが、自分をそう宣言する気はない。十六歳の身体に宿る力は、誰かの願いを「返す」ための手段であり、冠や称号とは異なる。だが今日は、その力を使わずに相手と向き合うことが求められると感じていた。前世の夜の病室で、窓を開けてほしいとだけ言った老婦人のことが、いつものように胸に浮かぶ。
「お茶を持ってきました」と、リゼットは台所の引き出しから湯呑みを取り出し、湯気を立てて男の前に差し出した。「熱くないですか?」
村長は一瞬戸惑ったように見えた。誤魔化すように手を伸ばして湯呑みを受け取ると、指先が少し震えた。指の甲に薄い瘢痕がいくつも走っている。リゼットはその手に触れるのを一度だけためらい、代わりに自分の掌を差し出してそっと受け取る仕草をした。触れるのではない。手渡す動作の温度を交換するだけだ。彼女の細やかな訓練は、介護士だった自分の身体に染みついている。聞くこと、手を差し伸べること、相手の意志を引き出すために場所と時間を作ること――そのすべてが、ここで生きる道具になる。
「話してくれますか。あなたが、どうしてこうなったのかを」リゼットは声を落とした。雨の音が屋根を叩き、部屋の中の時間を柔らかく伸ばす。外に集まっている村人たちのざわめきが、薄く扉の向こうから聞こえていた。村長は湯呑みの縁を指でなぞり、息を吐いた。
「話すかどうかは、ここで決めることだ。だが、お前にだけは――」彼は言葉を切り、見開いた目をリゼットに向けた。指先で膝掛けを掴み直す。そこに、不思議な輪郭が見えた。襟元から胸のあたりに、包帯で隠された小さな隆起がある。包帯の端が湿っているのは、彼が最近まで何かを覆っていた証だ。リゼットの視線はそれに引き寄せられたが、彼女はじっと胸元を見つめるのを抑え、まずは言葉を続けることを促した。
「私には強い魔法は使えません。深く覗き込むことも、記憶を奪うこともできません。あなただけが、自分の答えを持っているはずです。どうしたいのか、何を望むのか。その声を、もし聞かせてくれるなら、私は一緒に考えます」
村長の瞳に一瞬、何かが揺れた。彼の唇が震える。やがて、小さな声で吐かれたのは、震災や凶作と自分の選択を説明する、平坦で長い言葉の羅列だった。言い訳でも釈明でもない。ただ、起点から現在までの経緯を淡々と紡いでいく。
「十年ほど前だ。作物がことごとく枯れて、子供の顔がやつれていった。領主は税を減らさず、隣村には疫病が回った。城には物が届かず、聖堂の巡回も滞った。あの年、屋根を失った家がいくつかあって、暖を取るものすらなかった。皆で何度も祈った、だが空に答えはなかった」
彼は目線を落とし、喉を鳴らした。リゼットは静かに湯呑みの湯気を見つめ、時折うなずいた。話を聞くことは、彼の重荷を減らす最初の一歩でもあった。
「そのとき、聖堂の者が来た。若い侍従が、一枚の紙と小さな器を持っていた。『これを貸してくれれば、聖堂から食糧を送る』と。最初は疑った。だが、器を家に置いたら、子供が次の日に白粥を口にした。三日後には倉の隅に隠れていた穀物が増えていた。人々は生き延びた。だから――それから何度も頼んだ。使えば食の欠乏を越えられた。俺は、それでいいと思った。皆、そうした。誰かが動かなければ、村は消えると、俺は思ったんだ」
彼の声が薄く亀裂を作る。言葉の端々に、胸の奥から引き出された痛みが匂った。リゼットは前世の病室で、患者が満足そうに最後の食事を口にしたときの静かな安堵を思い出していた。だがここでは安堵の代償が別の形で現れている。それは、誰かの生命を「燃料」にして共同体を持ちこたえさせるという、やりきれない取引の痕跡だった。
「契約書は、紙の束だった。条件は数行で、『光を貸すこと、光を保持すること』と書いてあった。だが、本当の仕組みは――」村長は言葉を詰まらせ、畳の縁に置いた箱をそっと開けた。中には薄い硝子瓶が幾つか入っており、その底には黒い沈殿物が固まっていた。瓶の口には、かすかな聖堂の紋章が刻まれている。リゼットの胸の中で、何かが冷たくなった。
「それは、光が濁るときに出るものだと侍従は言った。『浄化のための残骸』だと。だが俺は見た。夜に祭壇を据えたとき、村の幾人かが眠りにつき、その光が管を通って行くのを。彼らは目を閉じ、呼吸が静かになった。俺は思った。これは代償だと。小さくても、皆を生かすための代償だと。それを選んだのは俺だ。合図を出したのも、俺だ」
リゼットは言葉を失いそうになったが、顔をそむけずにいることだけを選んだ。ここで非難を返すのは簡単だ。聖堂のやり方を糾弾すれば、村長は責任の大部分を免れるかもしれない。それでも、彼女はそれをしなかった。前世で何度も向き合った「最後の選択」が、ここにもあったからだ。人は追い詰められたとき、理想を捨てるか、罪のない者を差し出すかの二択を迫られる。責めれば、深い裂け目が生まれるだけだ。彼女が今できることは、問いを開くことだった。
「誰が合図を出すと、どうなるのですか?」リゼットは静かに尋ねた。「光は、どこへ流れますか?」
村長は顔を歪め、ゆっくりと立ち上がった。寝ているように見えた包帯が、彼の手で外される。包帯の下には黒い印が刻まれていた――刺青でもなければ傷でもない、まるで血管の中に住むような暗い模様が皮膚の下で脈打っている。箱に入った瓶の沈殿と同じ色をして、微かに光を吸うようだった。
「祭壇へだ。井戸のそばから一本の菅が延びていって、祭壇に繋がっている。祭壇で詠唱を合わせると、その菅を通じてタイミングよく光が引き出される。引き出された光は、濁りを一瞬だけ薄める。だが、それは誰かの意識と代償を必要とする。俺は、村が生きる選択をしたと思った。子供が死ぬよりは、眠る者が出る方がましだと。だが今、皆が同じ目をしている――眠ったままの顔で」彼の声が震えた。
「その合図を送る者は――俺だ。見返りは、食糧と種と、時には医薬だ。だが、これが本当に『救い』なのかは、もう答えられん。俺は愛する者を守りたかった。しかし彼らの声を奪ってしまったのではないか。ほんとうに、救いだったのか――」
沈黙が部屋を満たした。外の雨音が一瞬だけ弱まり、村の小さな息づかいが届くようだ。リゼットは胸の奥が冷えるのを感じた。ここから何をするべきか