月蝕湖のダイバー――沈都の命脈を継ぐ転生救難士 第6話「第5章」
夜の水面は黒絹のように張りつめていた。新月の影が湖を覆い、月光はない代わりに集落の灯りが島々の輪郭を切り取る。桟橋の先端では、ロープが軋む音と低い指示が混じり合い、空気の匂いの中に鉄の油と海草の生臭さが漂っていた。採掘船〈コルナ〉の残骸が、ほんの半ばだけ水面に顔を出している。板は裂け、鉄骨はねじれ、船内からは節くれだった小さな腕が濡れた毛布に包まれて押し込まれているのが見えた。
夜の水面は黒絹のように張りつめていた。新月の影が湖を覆い、月光はない代わりに集落の灯りが島々の輪郭を切り取る。桟橋の先端では、ロープが軋む音と低い指示が混じり合い、空気の匂いの中に鉄の油と海草の生臭さが漂っていた。採掘船〈コルナ〉の残骸が、ほんの半ばだけ水面に顔を出している。板は裂け、鉄骨はねじれ、船内からは節くれだった小さな腕が濡れた毛布に包まれて押し込まれているのが見えた。
「人数を数えろ」ガルドの声はいつも冷たい。だが今夜は、そこに疲労の低い波が滲んでいた。彼は船の横で長い棒を押し付け、浮力を維持するために舵を踏ん張っている。トトは工具箱を膝に抱え、細い息を吐きながら潜降の支度を続ける。ユノは聖印に触れて祈る代わりに、命令書の端を顎で押さえていた。ミナは、震える指で羊皮紙の頁をめくり、黒丸の一つ一つを見下ろしていた。
レオは桟橋の端で月形ライトを握った。金属は冷たく、指先に残る凹みがいつもの感触だ。彼が深呼吸をすると、胸の奥がきりりと引き締まる。水底で見える銀の線は、彼に道を示すものだが、それは確定ではない――他者の選択が変われば崩れる地図である。彼はそれを忘れてはいなかった。だが、見えるものは救いを求める手の列だ。無数の小さな手が銀線の向こうで伸び、彼に向かって届こうとしていた。
「子どもは三十七人。船長の報告と一致する」ミナが声を絞った。息が白く見えるのは気温のせいだけではない。彼女の指先が紙の地図の黒丸に触れ、そこに記された一点が今宵の座標と重なって見えた。彼女の視線は揺れている。北の矢印は意味をなさない。彼女は母の地図が示していたものを、いま自分の目で確かめていた。
「隔壁が閉じてる」トトが短く言った。彼の手元からは濃い油の匂いが立ち上り、工具の中にこびりついた塩が光った。トトは水中で隔壁が内側から圧着されているのを見てきた。圧力差で鋼板が反り返り、鍵となるはずの船尾区画は孤立している。そこに装置の部材があるという報告があった。ミナが古文書の番号と船体の刻印を照合した結果、確かに〈コルナ〉は心臓部に使う可能性のある部材――同列の部品を運ぶ船団の一隻だと示していた。
レオはライトの縁を撫で、銀の線を水面に触れさせた。触れた瞬間、冷たさとともに過去の流路が跳ね上がる。銀は彼の手から指先へと伝わり、やがて水中に枝状に広がった。いくつもの経路が重なり合い、過去の流れが海図のように立ち上がる。最短路は船尾へ一直線を描くが、その先には細い線が一つ、心臓部へ伸びていた。銀の線は──子どもたちのいる区画ではなく、装置へと向かっていた。
「向きが装置に寄ってる」ミナが息を呑む。彼女の指先が微かに震え、羊皮紙の端がふるえる。銀の線は過去の掘削路をそのままなぞっているだけで、現状の閉塞を無視している。だが彼らが今そこを辿ると、船尾から出る物体が心臓部に接触する危険がある。トトが眉を寄せ、ガルドが唇を固く結ぶ。
「子どもを優先だ」ガルドの声に迷いはない。だが彼の眼差しは、船体の反対側に寄せられている。装置の話が、無言の重石のように集落の上にのしかかっている。ヴァルザの影響は水面の下にも浸透しているのだと、誰もが感じていた。
レオの耳に、かすかな声が触れた。それは水の中から来る声であり、同時に胸の奥から響く記憶と重なった。前世の夜、濁流の中で泣いていたあの子の声だ。高さも震えも、今目の前にいる少年の声と同じ音色であるように思えた。彼の心臓が細かく踊る。手が勝手に伸び、銀の線を辿ろうとした。
「レオ!」ガルドが咄嗟に棒を振り、彼の肩を強く掴んだ。力は優しくはなく、しかし確かな止めだった。「一人で行くな。命令だ」
その一言は、彼を引き戻した。レオは水面の反射に映る自分の顔を見た。瞳の中に、小さな三日月の反射が揺れていたのが分かった。だがその反射の一部が薄れている。使いすぎたときに起きる感触――前世の輪郭が薄くなり、変わりに水の記録が滑り込むような違和感が胸を掠める。名前の一部が、手の届かない霧の中へ消えかけているのを彼は感じていた。
「皆で行く」トトが低く宣言した。彼は工具箱を肩にかけ、潜水輪をつかんだ。ミナは紙を引き寄せ、黒丸に唇を寄せる動作をした。ユノは聖印を握りしめ、砂時計をもう一度ポケットで振った。四人の輪ができると、レオの心の奥に不思議な安堵が湧いた。単独で突っ込むのではなく、共に行く。仲間の手が、銀の線が示す崩れやすい道を補強することを彼は知っていた。
船へ近づくと、水面は断続的にうねり、鉄の裂ける音が抑えた金属音となって響いた。トトが潜降していくと、彼の姿は水に吸われるように消え、工具の先端だけが銀の光を受けて綺麗に揺れた。ミナは小さな札を取り出し、黒丸に対応する番号を指示に変えていく。彼女の声は震えているが、確実だ。「左舷三メートル、隔壁の継ぎ目に小さな印。そこが弱点だ」
トトが隔壁に取り付くと、鋼に塗られた古い刻印が指先に触れた。彼は力を込め、油圧爪で隙間をこじ開けにかかる。だが鋼は曲がり、錆びた溶接が再結合しており、簡単にはいかない。レオはライトを下ろし、水中で銀の線を追った。子どもたちの区画は狭い通路と折り重なった棚の迷路になっている。過去の流路は通路の一直線を示していたが、現実は折れ曲がり、隔壁によって遮られている。もし誰かがそこで動けば、過去は崩れ、新たな水路が生まれる。
「トト! いけるか?」ガルドの指示が耳に届く。
「いける。ただし時間をくれ」トトの返事は淡々としていた。工具を回している手の動きが、一つ一つ刻まれていく。空気嚢の小さな膨らみが揺れ、彼の呼吸のリズムが周囲へ伝播する。彼の執念が少しずつ鋼を開かせる。やがて、金属が悲鳴のように裂け、細い隙間が現れた。
そこから、冷たい水が噴き出す。水の勢いに押され、銀の線が一度激しく波打つ。過去の経路が震え、細い線が一つ切れた。レオの胸の中に、ぞくりとした恐怖が走る。過去は崩れかけており、今は彼らの判断で成立する瞬間だ。彼は深く息を吸い、指を光らせる。
「合図を決める」レオが言った。彼は仲間に目配せをし、ミナは羊皮紙の角を噛むようにして頷いた。「私が線を示す。皆は声と器具で道を作れ。決して私だけを頼るな」
ガルドがうなずき、ユノが短く頷いた。そこにあるのは協定だ。レオは自分の能力に依存するのではなく、能力を仲間と結びつけることを選んだ。水中では、声が届きにくい。代わりに小さなベルやロープの打音が合図になる。トトは工具箱から細い管を取り出し、潜水用の小型発破器具を固定した。彼らは緊密な舞踏のように動き始めた。
中へ入ると、子どもたちの悲鳴や呻きはしばらく聞こえなかった。水が音を吸い込み、ただ機械の遠い息づかいが残る。だが銀の線は確かにここにある。レオはそれに沿って進み、狭い通路で片方の手を壁に押し付け、もう一方の手で光を送る。銀の線が彼の指先を導き、子どもたちの位置を一つずつ示してゆく。
通路の一角、古い木箱の影から小さな顔が顔を出した。泥と海藻で覆われたその顔は、目を見開きながら彼を見上げた。小さな手が壁を掴もうと伸びる。レオは子どもを抱き寄せ、毛布を持っていなかったが自分の上着を脱いでく