月蝕湖のダイバー――沈都の命脈を継ぐ転生救難士 第2話「第1章」
朝の光は湖の背骨をなでるように細く、ルナ・リーフの家々はその刃の上に横たわる。木の桟橋に腰を下ろした少年は、凍るような冷気と同じだけの覚悟を手のひらに温めていた。海のないこの世界で、彼の世界は水の上にあった。十三歳のレオ・ナギは、今日が初めての本格的な潜水訓練だと噂話を耳にしていたが、心臓はそれ以上に騒いでいる。自分でもなぜか、自分の胸の奥が重くなる理由を探していた。
朝の光は湖の背骨をなでるように細く、ルナ・リーフの家々はその刃の上に横たわる。木の桟橋に腰を下ろした少年は、凍るような冷気と同じだけの覚悟を手のひらに温めていた。海のないこの世界で、彼の世界は水の上にあった。十三歳のレオ・ナギは、今日が初めての本格的な潜水訓練だと噂話を耳にしていたが、心臓はそれ以上に騒いでいる。自分でもなぜか、自分の胸の奥が重くなる理由を探していた。
ガルドの船は、白い帆ではなく板張りと古い布でできた屋根をいくつも重ねた怪物のように、桟橋の下で唸っていた。ガルドは四十手前の男で、顔に波の地図が刻まれている。怒り顔でレオを見下ろし、手荒く小さなロープを叩いた。
「準備はいいか、レオ。器具の確認。怯える暇はない。水の中で迷う者は、岸じゃなく水を迷わせるんだ」
レオはうなずいた。指先で自分の胸に収めた小さな金属片──半月形の薄い蓋のようなものを確かめる。潮色の光を少しだけ吸うその月形は、いつの間にか彼の首にぶら下がっていた。作りは粗雑で、湖上の店で買えるもののようでもあり、逆に古い工房の残り物のようでもあった。昨夜、寝台の下から無造作に見つけ、握ったとたんに胸の中で何かが鳴った感覚がある。だがそれを言葉にする暇もなく、彼らは船を押し出して水面へ出た。
湖は三日月の弧を描いている。外側の縁が鋭く光り、内側の湾が暗い。朝の月はまだ沈みかけで、湖面に細い銀線が走っていた。岸から見ればさぞかし穏やかだろうが、レオの足下に伝わる振動は、沈んだものたちの記憶が寝返る気配を帯びていた。
「ターゲットは旧鐘楼の付近だ。浅い沈没物が多い。潜る順序は、一番手はガルド、二番手はトト、三番手はお前だ。命綱は離すな。合図は三本短い波紋だ」
ガルドの命令は重く、その背後には村の信頼が滲んでいる。レオはそれに応えようとするが、胸のどこかで前触れのように震えるものがある。水の色、風の匂い、そしてあの月形金属が――冷たい小さな磁石のように、彼を湖へ引いていた。
「行くぞ」
帆柱の隙間から差し込んだ光が湖面を切り、世界が一度だけ鮮やかになる。ガルドとトトが滑り降りるようにして先行し、レオは最後に紐を結わえてから腰を下ろした。水は冷たく、腕が浸かるとまるで別の世界の空気を吸い込むように胸が詰まる。だが、その瞬間、彼の視界は変わった。
指先から、銀の糸が水に引かれる。糸はじんわりと光り、透明な地図のように波の中を伸びていく。見上げると、湖面の反転した空が歪んでおり、その歪みの中に、逆さにぶら下がった窓や細い路地がぼんやりと重なっている。糸は彼の手首から伸び、沈んだ塔へと舐めるように続いていた。暖かい記憶の断片が波紋のように心を撫でる。濡れた合成繊維の匂い、酸っぱい海藻のような匂い、誰かの叫び、そして――固く締めた手袋の感触。
喉の奥が引き攣り、目蓋の裏に別の顔が浮かんだ。それは見覚えのある制服の背中で、胸に縫われた小さな光の印がほんの少し見えた。心臓が綻びるように痛む。レオは息を呑んだ。名前が、薄い膜のように首の根元で揺れている。朝倉――という音節が触れかける。だがそれはすぐに水のなかで薄くなり、彼は自分の本当の名を確かめようとして手を振った。自分の呼び名、村で呼ばれてきた「レオ」という声が耳に届く。それで戻った。
「レオ、下りろ。今だ」
ガルドの声が水を通して届く。現実が押し返してくる。銀の糸は明瞭に沈没船の破片まで引かれており、その先で小さな黒い影がもぞもぞと動いているのが見えた。子どもだ。手足の小ささ、驚きにびくつく呼吸の波形。銀の線はその子の周りで輪を描き、最短の抜け道を示していた。
本能が叫ぶ。行け、と。誰かを助けるなら今だ、と。だが次の瞬間、レオはガルドの教えを思い出した。命綱、連携、合図。単独で飛び込むのがどれだけ無茶なのかを。前世のなかで味わった、ひとりで抱え込んで失った重さが胸に戻ってきた。レオは吸気を小さくして、自分の手に巻いたロープの結び目を確かめる。
「行くぞ、二人同時に引く!」
トトの声。彼は小さく、だが確実に指示を出す。金属の匂いが混じった空気嚢が水面で膨らむのが見え、ガルドの足が沈没物の陰へ沈む。銀の糸は揺れる。だがそれは変化ではなく、可能性の揺らぎだった。糸の先に映る過去の道は、ひとりの行動が加わるだけで瞬時に形を変える。ほんの少し、誰かが扉を押し開けたとき、流路が別の方へ折れた。
「いくつかの線は過去だ。今の人間が動けば、地図は崩れる」
それが頭の中に、どこからか文字になって滑り込んだ。レオは言葉の出どころを探したが、返事はない。自分の能力が予言ではなく、ただの重ね写しであることを、今見ている光景が示している。過去を伝えるだけで、未来を約束するものではない。レオは力を籠めて足を伸ばし、示された最短路を辿るように潜った。
水は音を飲む。銀の糸は手の周りで鮮やかに震え、レオの視界は狭くなる。狭い船倉の裂け目をくぐると、押し寄せる水圧が胸を締め付けた。向こう側に小さな顔が沈んでいる。黒い瞳が彼を見上げ、驚きと恐怖が渦をまいている。レオは手を伸ばした。子どもの髪が彼の指の間でまぶたのように揺れた。
だが、脱出路は完全ではなかった。隔壁が膨張していて、指が入る隙間がほとんどない。それに、銀の糸が示す最短路が一瞬揺らぎ、別の裂け目を指し示している。誰かが外で押したのだ。流れは変わり、過去の地図は現在の人の選択によって塗り替えられる。レオは咄嗟に考えた。もし自分が一人で子どもを無理に引っ張れば、別の誰かが危険に陥るかもしれない。仲間が掴むロープ、浮力、合図がなければ、助けは完成しない。
彼はそっと子どもの肩に手を置き、目を合わせた。言葉は要らない。水の中の視線交換だけが合図となる。子どもは小さな口を割き、泡を吹き出す。次の瞬間、外から強い引きがかかり、レオと子どもは隔壁の裂け目に向かって押し出されるように移動した。ロープが首に巻かれ、誰かの手が確かなリズムで引く。体が向きを変えるたび、銀の糸は一瞬消え、また新しい線を結んでいく。動的な地図が、命をつないでいた。
浮上するとき、水面を割る銀の光が朝日に溶けていく。子どもの顔は真っ赤で、肺の奥から叫びが漏れた。ガルドとトトがロープを引き上げ、船の板に二人を載せる。岸からミナの小さな姿が見えた。彼女はいつものように本を抱えていて、表情は無口なままだが目には何かしらの光が残っている。村人たちが拍手をする。初潜水成功だ。だがレオの胸の中には、まだ波が残っていた。
「大丈夫か?」
ガルドがレオの肩を叩く。手の重みは慰めで、同時に鎮めるための枷でもあった。レオは首の月形を指で触れ、強く息を吐いた。水の中で見たものは、ただの映像ではない。彼は何かを取り戻した感覚と、同時に失いかけた感覚を味わっていた。朝倉──という音節は指先から逃げていき、代わりに湊という破片だけが胸に残っている。その破片を大事に抱えるように、彼は小さく笑ってみせた。
「よくやった、レオ。だが忘れるな。今日のことをな。個人の英雄譚で終わらせるなよ」
トトは器具の点検をしながら言った。彼の指先は鋭く、壊れたものを直すリズムで話す。村の掟は、誰かを褒