月蝕語りの竜騎士弟子 第9話「第8章」
夜の王都は、静かに裂けていた。満月が近いことを告げる冷たい白さが、瓦屋根を洗い、石畳の隙間に細い月光の糸を落としている。リュートはその糸の上をひとつ、ふたつと足を進めるたびに、胸の奥に何かが鳴るのを感じた。音ではない。候補の束が擦れ合う、薄い紙の音のようなものだ。彼はそれを聞き分けようとするが、確定することはまだしない。確定すれば、今夜の一つを奪われる。奪われた先の欠落は、どれほど重いのか、彼はまだ知らない。
夜の王都は、静かに裂けていた。満月が近いことを告げる冷たい白さが、瓦屋根を洗い、石畳の隙間に細い月光の糸を落としている。リュートはその糸の上をひとつ、ふたつと足を進めるたびに、胸の奥に何かが鳴るのを感じた。音ではない。候補の束が擦れ合う、薄い紙の音のようなものだ。彼はそれを聞き分けようとするが、確定することはまだしない。確定すれば、今夜の一つを奪われる。奪われた先の欠落は、どれほど重いのか、彼はまだ知らない。
「ここからだ」。セラの声は低く、震えている。公文書館から抜き取った写しを外套に忍ばせた彼女の指先は、暖かさを失っていた。オルドは前方の影に体を沈め、鋭い目で見廻している。ガンツは小さく震えながらも、片翼を半分だけ広げ、床に細い月影を描いた。三つの小さな楕円が、かすかなリズムを刻む。リュートの中で、それが即座に候補へと重なった。警告か、合図か、停止の命か。
彼らは王宮地下の侍従塔へと向かった。第五章で見つけた窓の道標――リュートの部屋に落ちていた月影が示していた、古い連絡路の続きだ。路は湿気と古い蝋の匂いを抱えて、時折石の隙間から白い息を吐く。道標の石面に彫られた矢印は、もう誰にも読まれない約束の指標だった。リュートは足元に落ちる自分の影を見下ろし、それがガンツの影と重なるときにだけ、暗号の線が繋がるのを感じた。影の合わさりは、彼の月譜に一つの形を与える。だが、それはまだ一本の銀線にはならない。
侍従塔の扉は、静かに開いていた。中は薄暗く、寝息だけが断続的に聞こえる。王子だ。というより王子を護るための世話衆が睡っているだけの薄暗い仮の病室に、王子の姿は小さく俯せに横たわっていた。胸に埋められた乳白色の塊は、月光を受けてちらりと光る。その光は鼓動に合わせて脈打ち、彼の呼吸とともに広がったり引っ込んだりする。脈拍が、リュートの目に竜の心音と重なる。
「触るな」。若い侍従の声が、器具の向こうからかすかに漏れた。だが彼らは来てしまったのだ。セラが一歩前に出て、懐から小さな布を取り出した。医術のための包帯ではない。条約の写しの隠し頁を胸元に押し込むための布だ。彼女の手は震えながらも確かで、内側にしのばせた写しを王子の視界から外れる位置にすべり込ませた。
リュートは王子の顔を見下ろした。眉間に刻まれた不安と吐露できない恐怖。年端もいかぬほど若いこの人が、国のために飾り立てられ、今や器具のごとく扱われている。顔の表情を追うと、彼の唇がかすかに動いた。声は出ていない。だがそこに、確かな意志が揺れている。リュートはその揺れを、月譜の一つの候補へと収めた。
「王子様」――セラは囁いた。彼女の指先が写しを抱き直す。王子は微かに眼を開け、周囲を見た。見た目は弱さだが、その瞳は何かを問うていた。リュートは近づき、床に膝をついた。距離を縮め、視線を合わせるために。口が利けない今、彼にできるのは身振りと目だけだ。指先を胸の石へ向け、そこで刻まれている脈動の図を空中に描く。白い線が、彼の指先から生まれ、月光に淡く溶けていく。
王子はそれを見つめていた。一呼吸、二呼吸。ガンツが三度、短い羽音を打ち、影が一瞬、王子の胸の辺りで固まる。三拍。リュートの中で、候補の一つが鋭く反応した。「止めよ」。あるいは「抜け」。あるいは「殺せ」。音は重なるが、意味は一つにならない。彼は確定の行為をまだ行わない。確定を行えば、その夜の記憶が一つ消える。どれを失うのかを選べるわけではない。だから彼は知っていても、あえて「翻訳を確定する」という動作を保留する。
「王子は…どう思われます?」セラが静かに言った。彼女の声には、規則を越える恐れと義務が混じっていた。ヴァルナの言葉が、彼女の耳にまだ響いている。母の処刑。改竄。だが目の前のこの脈拍は、その紙の黒よりもずっと生々しい。
王子はわずかに口を開け、声にならない言葉を漏らした。呼吸の谷間に、二つの音節が震えた。リュートはそれを丸ごと受け取り、候補の束から一本、太い芯を取り出すような気持ちになった。彼は君の耳で直接聞いたわけではない。だが目の表情と唇の動き、そして胸の脈動が一つになった時、彼の中の不確かさは瞬時に薄れた。王子は、摘出を望んでいる。恐怖の中で、自分で自分を道具にしたくないと願っている。
確定できる。だが確定してしまえば、今夜――この満月の近い時間に、リュートは記憶の鍵を一つ手放すことになる。前世の研究室のにおい、あるいは母の顔、あるいは転生の瞬間。どれが欠けるかは選べない。彼は震えた。一方で、もし摘出されなければ、ヴァルナは王子を「生きた署名」として扱い、条文を発動させるだろう。王国は錘をかけられたように固まり、竜は無理やり人間の法の枠へ封じられる。選択は、彼の胸を引き裂く。
「摘出すべきだ」オルドが短く言った。彼の声には復讐すら乗っていない。冷たい、ただの判断だ。「だが術師が必要だ。ここでやるべきではない。公の目を避けて、専門の者に任せるべきだ」
侍従の一人が慌てて起き上がり、外に向けて短い呼び声を上げる。鍔鳴りがし、廊下に足音が乱れだした。時間がなかった。リュートは胸の中で候補の線をしばらく釣り上げたまま、言葉にならぬ決意を固める。確定ではなく、行動を選ぶ。自分の記憶を賭ける前に、できることは全部やる。彼は立ち上がり、王子の肩に触れて、さらに近くに寄った。目を見て、静かに唇を動かす。
「摘出したい、と望むのか。君自身の意志でか?」
王子は少し驚いたように、こくりと頷いた。声にならない頷きだが、それは十分だった。リュートは心の中で、鋭く一本の光を掴んだ。だが彼はそれを、翻訳として確定しない。確定は行為の名付けだ。今は名付けるのではなく、守る。王子の意志を、誰にも奪われないように。
「じゃ、外へ持ち出そう」セラが決めた。声はまだ震えていたが、そこには笛のような決意が混ざっていた。「このまま放置すればヴァルナの手に行く。写しがある。写しがあれば改竄の痕跡を晒せる。術師を……私が知る人がいるわ」
「間に合うか?」オルドが問う。彼の指は握りしめられた紙に力を入れていた。彼は復讐心よりも、人を避難させる計画のほうを優先している。それが彼の変化だ。リュートはその指の固さを見て、内側の恐れが外へ押し出されるのを感じた。
「やるなら今だ」ガンツが小さく喉を鳴らす。リュートはその声を、静かな支持として受け取った。ガンツの影が王子の胸元に重なり、三つの楕円がぴたりと合致する。月光がそこで固まり、石の光がまた少しだけ強まった。まるで誰かが、合図を待っていたかのようだった。
彼らは王子を抱え上げ、廊下を抜ける。侍従の一人が追ってきたが、オルドが彼を静かに押さえ込んで外へと追いやった。だがその直後、遠くの階段を踏みしめる群れの音が聞こえた。重い鎧の擦れる音、命令の声。誰かが早足で来る。リュートは胸の奥で、なにかが冷たく締まるのを感じた。
「こっちだ。秘密通路を使え」セラの指示は短い。彼女は外套の内から写しの別頁を引き抜き、懐に深く押し込んだ。写しは真実の欠片だ。これがあれば、ヴァルナの偽諾を暴けるかもしれない。しかし写しだけでは足りない。王子本人の証言と、術師の証が必