月蝕語りの竜騎士弟子 第10話「第9章」
夜の風が、王都の石畳を低く撫でた。松明の列は既に遠く、宮廷へ続く道は人の波を運んでいる。リュートは布で包んだ膝を抱え、歩調を合わせながらもその場にいることを拒むように足を止めた。広場へ向かう列の向こう側、塀際の影に何かが倒れているのが見えた。毛布の端が月光で銀を引き、そこにあるはずの人の形が、思いのほか小さく、脆く見えた。
夜の風が、王都の石畳を低く撫でた。松明の列は既に遠く、宮廷へ続く道は人の波を運んでいる。リュートは布で包んだ膝を抱え、歩調を合わせながらもその場にいることを拒むように足を止めた。広場へ向かう列の向こう側、塀際の影に何かが倒れているのが見えた。毛布の端が月光で銀を引き、そこにあるはずの人の形が、思いのほか小さく、脆く見えた。
オルドが先にそれに気づいた。彼の足音が止まり、矢のような視線が落ちる。セラが息を詰めて近づき、ガンツは羽根を震わせて低くうなった。リュートはそれでも一歩、二歩と進んだ。頭の中で月譜の線が淡く光る。まだ確定しない候補が三本、青と白と薄い赤の細い線として繋がったり切れたりする。真意は、当人の言葉を聞くまでは一本に絞れない。けれど、空気の端に立つ何かが、それでも彼に語りかけてくる。
毛布が払われたとき、彼らの間に短い静寂が落ちた。そこに現れたのは、彼らが英雄視していたはずの男の背中だった。エルガの紋を刻んだ緋の外套は裂け、肩は血に濡れている。顔は泥と埃で汚れていたが、それでも兄の顔であった。──リュートは胸が押し潰されるような感覚を得た。兄は立とうとして、一度ひどくよろめいた。
「……兄さん」リュートの声が自然に出た。夜気に溶ける細い音だった。だが兄は振り返らず、ただ下ろした手を見つめていた。そこに包まれていたはずの白手袋が無造作に投げ捨てられている。手袋の下から露出したのは、鈍い鱗のような模様が掌に刻まれた裸の手だ。月光が触れると、鱗目は柔らかく光り、縦横に走る細い線が不規則に震えた。
セラが小さく息を吐いた。彼女の目はかつての英雄像を探すように兄の顔を滑り、そしてその手のほうへ引き戻された。「あれは……」言葉はそこで止まる。オルドは無言で両の拳を固め、あきらかに怒りでも恐れでもない複雑な感情が彼の表情を引き締める。ガンツが低く羽音を一度だけ鳴らし、三拍の節に揃うように静かに頭を傾けた。ミナならその瞬間、歌の間奏を合わせただろう。リュートは、無意識のうちに指先で空中に三本の区切りを描いた。月譜の線が薄く答えをなぞる。
兄はゆっくりと膝を折り、地面に手をついた。刻まれた鱗文字が微かに赤く瞬き、まるで生き物の皮膚が呼吸をしているようだった。彼はやっと顔を上げ、リュートを見た。瞳にはかつての輝きが残っているが、それは英雄譚で聞くような高揚ではなく、疲弊と計算された冷たさの混じったものだった。
「リュート」兄の声は砂の上を転がるように低く、しかし確かに届いた。「お前まで来るな。ここにいるべきではない」
その言葉だけで、オルドが身を乗り出す。だが兄はその手を上げ、彼を制した。手の動きは疲れているが正確で、軍人としての無駄のない所作を残していた。「聞け。俺は……竜と話をした。条約の一節に、致命的な欠落があると告げたんだ。だがそれを暴けば、王国は二つに裂ける。お前たちがここで王子を守れば、内紛が起こる」
その言葉に、リュートは月譜の線が短く震えるのを感じた。鱗文字と条文の間を結ぶ細い銀い線が、脳裏にだけ見える。リュートは立ち尽くしながらも、兄の手の鱗一つ一つが、どこか条文の該当箇所へ、見る者の目にしか見えない矢印を差しているように思えた。だがそれはまだ候補の空白でしかない。三つの意味が重なって、どれが確かかは決められない。
「交渉して、それでどうなったんだ?」セラが静かに訊いた。指先に震えがあり、瞳は冷徹に軋む書類を思い出している。
兄は苦笑したように見えた。「表向きには失敗にされた。騒ぎを起こさないために、俺の名を使って誤訳を仕立て上げた。ヴァルナの方が足が速かった。彼は竜の羽音を単純な服従の音へ書き換えた。だが、俺は……あの言葉を残した。鱗に。己の皮に刻んでな」
彼の掌が小さく開かれると、そこから淡い光が漏れた。光は文字の縁をつつみ、掌と紙とを一瞬で結びつける。誰が見てもただの光だが、リュートの目には、鱗文字の線が赤と青の候補線と絡まり合い、欠落箇所を埋めるように見えた。兄の鱗のひとつが、条文の黒く塗りつぶされた箇所に重なると、その塗りつぶしの縁が薄く崩れ、小さな裂け目から元の墨が姿を現したような錯覚を覚えた。街灯のそばに落ちる月影ならではの錯視かもしれない。だが錯視がここに意味をもたらすこともある。
「なぜ隠した」オルドの声は喉の奥で低く震えた。「なぜ軍はお前を見捨てたんだ」
兄は肩を震わせた。笑いにも似た小さな吐息が出る。「英雄というのは、都合のいい仮面だ。真実を着て歩けるほどの余裕は、もうこの国にはない。俺は……交渉を続けようとした。だが、竜の言葉は人間には鋭く突き刺さる。彼らは人の自由を損なう条項に怒り、暴発する可能性があった。ヴァルナはそれを恐れた。だから、お前らのような若い面々に責任を寄せ、自分の手を汚さずに済ませた」
セラの顔がゆがむ。彼女は短く息を吐き、目を閉じる。「お母様が……」その言葉は宙に消えた。リュートは、彼女が母を処刑されたときの情景を目に浮かべる。あの日、条約の一語が人の命を左右した。彼女の信条は、規則を守ることの正義だった。それを兄の告白は、深く揺さぶる。
「逃げるつもりか」オルドが言う。剣の先で示すように、彼は兄の行為を咎めるのではなく、責任を問いただしている。兄は振り返り、冷たい瞳でオルドを見据えた。
「違う」その声に、以前の彼を見た。まだ消えていない、仲間を守る男の張り。だがすぐにそれは柔らぎ、疲労と諦観が混じる。「俺はここで終わらせるつもりはない。ただ、今は撤退してくれ。お前たちが公の場で騒げば、ヴァルナはすぐに軍を動かす。王子を前に立たせることで、彼は既成事実を作る。そこで血が流れれば、誰も戻せない。俺はそれを見たくないんだ」
リュートの胸が痛む。兄の言葉は一見、合理に聞こえる。だがリュートは、胸のうちの微かな反発を抑えきれなかった。彼はすでに、真実を「誰かに渡す」という決意を前世で選んできた者だ。記録を保存するだけではなく、渡すという行為を選んだ瞬間に転生が始まった。人が秘密を抱え続けることで、どれほどの痛みが生まれるかを彼は知っている。
彼は鱗文字に指を伸ばしそうになったが、そこで止めた。触れて確定することは、彼の能力の代価を即座に招く。もし今、彼が兄の言葉の真意を確定させ、条文の欠落を一つの意味に収束させれば、今夜の記憶が一つ消える。母の顔か、研究室の書棚の匂いか、転生直後の竜舎の壁か──どれが奪われるかは運だ。リュートはその賭けを、まだ受け入れられなかった。
「君の口から聞く。それがあれば、俺は判る」リュートは静かに言った。彼の指先は空中で小さく震え、三本の線を示す。青が危険、白が拒絶、赤が助け。彼はどれかへ収束させたくない。兄の言葉が、それ自体で証拠となるようにしたい。だから彼は、翻訳を確定するのではなく、証拠を配ることを選んだ。
兄は一瞬、苦い笑みを見せた。「誰もお前を守れない、リュート」それは忠告か、悲しみか。リュートの胸の奥に差し込む痛みは、幼い日の兄の背に隠れていた安心を思い出させた。しかしそれはもう戻らない。彼は自分が守られる弟であることを拒む覚悟を固める。
「僕は、守られるために