月蝕語りの竜騎士弟子 第5話「第4章」
扉は思っていたよりも軽く、しかし確かな手応えで閉まった。夜の王城は祭りの喧騒と皮一枚で隔てられている。通りから届く太鼓と花火の低い残響が、石の廊下でふっと薄まった。リュートは息を整え、手にした金板を胸元に抱えたまま、兄の部屋の前で立ち止まる。扉の木目は古く、手入れをされているとは言えない。指の先は冷え、月光が指先を銀色に撫でていく。
扉は思っていたよりも軽く、しかし確かな手応えで閉まった。夜の王城は祭りの喧騒と皮一枚で隔てられている。通りから届く太鼓と花火の低い残響が、石の廊下でふっと薄まった。リュートは息を整え、手にした金板を胸元に抱えたまま、兄の部屋の前で立ち止まる。扉の木目は古く、手入れをされているとは言えない。指の先は冷え、月光が指先を銀色に撫でていく。
兄の名はエイモン。人々の胸中では英雄の名だ。だがここにあるのは、英雄像ではなく一人の男の私室の残り香と形跡だ。それを確かめに来たのは、好奇心でも悪意でもない。透として生きた記憶が、真実の一片を欲しがっていたからだ。前世で最後の話者と交わした「渡す」という決意が彼を動かしている。渡すためには、まず受け取らねばならない。彼は自分が何を渡す役割を担うのか、まだよく分かっていなかったが、兄の部屋にはそのヒントがあると思っていた。
扉を押すと、土と革と少しだけ金属の匂いが混じった。窓は厚い羽目板で半ば塞がれており、月光は縦に裂けた隙間から細く差し込む。差し込む光は、庭の大木の影と相まって、床に細い筋を描く。彼の目は自然とその影を追った。影の線が亀裂のように走る。一瞬、幼い頃に見た地図の破片を思い出す。リュートはそれを月譜解読の視線で捉えた。何が言いたいのか、複数の候補が胸の中でざわめく――保護、隠蔽、道標。確定はできない。だが確定以前の知覚は、いつだって役に立った。
机の上には巡回記録の冊子が一冊、無造作に置かれていた。インクは濃く、擦り切れたページの余白に人の指紋が残っている。彼は冊子の角に触れ、指先で紙の繊維の向きを辿った。これはただの巡回表ではない。何者かが日付の行をえぐるように黒く塗りつぶしている。塗りつぶし方が雑で、よく見ると上から再度薄い字が書かれているのだが、それは別の筆跡だった。誰かが後から書き換えた。リュートは胸の中の翻訳候補を増やした。隠蔽か、混乱を装うための芝居か、あるいは公共の記録を抹消して別の物語を記すためか――三つ、五つ、十の可能性が連結したり分かれたりする。
引き出しをひとつ引くと、そこには白い手袋が畳んで入っていた。いつも兄が手にはめているものだと説明されていた白手袋だ。満月の夜、兄は決してあの手袋を外さない。噂話の端にあるそれが、ここにあった。リュートは一瞬、取るべきかどうか迷った。手を伸ばせば、彼は――何をするつもりだったのか。調べるのか、持ち去るのか、それとも証拠として遠くへ保管するのか。透としての習性――記録し、保存し、人に渡す――が彼の指先を動かしかけた。しかし彼は手を引いた。理由は簡単だ。これは兄のものだ。持ち去ればそれは盗みになる。渡すために持ち去る――それは本来の「渡す」とは種類が違う。彼の前世の倫理はここでも生きていた。記録を独り占めにはしない。誤訳の責任を一人に負わせぬようにと決めた直後の、彼なりの誠意の表れでもあった。
指先が触れた革の縫い目に、銀色の月光が一瞬だけ差し込んだ。その光の流れで、縫い目の隙間から何かが覗いた。小さな鱗のような光沢。リュートは目を細めた。見間違いだろうか。革の裏地まではなかったはずの光沢が、薄い隙間からほんの少しだけ覗いている。もしそれが本当に皮膚の上の表皮なら、人型のそれとは違う反射だ。彼の前世の身体は既に朽ちてしまったが、観察眼は消えていない。鱗と呼びたくなるような、重なった小さな文様が見える。鱗文字――そういう可能性が浮かんだ。
それを確かめるために手袋を脱がせることはできない。彼は盗みを意図しないという自制だけではない。もし兄が自分でそれを見えなくするために手袋を常に着けているのなら、外すことは兄の意志を破る行為だ。人と竜の協定に関する何かを隠すために、あるいは己自身の痕跡を隠すために――理由は何であれ、ここで彼が行う行為は後の物語の意味を変えてしまうだろう。リュートはその場で静かに膝を折り、手袋の縁に触れたまま、ただ見下ろした。月光が縫い目を滑り、鱗の光沢を一度だけ強調する。窓の向こうで、祭りの音が三つの短いリズムになって途切れた。短、長、短。心臓の奥で何かが合致するような感覚があった。
机の上には小さな紙片が挟まれていた。角がよく擦れていて、誰かが何度も読んだ形跡がある。そこに走る文字は乱暴で、しかし意図的に整っていた。インクの流れは急ぎ、だが確かに書き留めるための筆致だ。リュートは紙を拾い上げ、月光の筋に透かして読んだ。その一行が彼の胸を小さく掴んだ。
声で答えるな、影を見ろ。
言葉は短かった。紙は折りたたまれ、縫い目の内側に滑り込んだ形で置かれていたのだろう。誰が置いたのか。兄自身か、それとも見張りの誰かか。文体からは切迫感と冷静さが同居していた。これを読んだとき、リュートの頭には、前世で最後の話者が残した節回しの断片がほのかに重なった。声が物事を決めるのではない、影が意味を示すこともあるという感覚。月は約束を覚える器であり、影はその記述の一部になるのだという知識が、静かに耳元で囁いた。
「影を見ろ」――それは兄が誰かと交信する際に用いた合図なのか。あるいは、戦場での合図なのか。文字列は、竜と人間のあいだに立つ彼の立場を物語っていた。リュートは紙を元に戻す代わりに、そっと胸の内側のポケットに入れた。表だって持ち歩けば、誰かに見つかるかもしれない。ここに置いておけば、兄が戻って見つけるだろう。だがもし兄が戻らないなら、それは未来の誰かの手に渡る。彼は、自分の「渡す」の形を、己の身体と同じくらい慎重に選んでいた。
引き出しの底からは、まだ乾いた土の匂いがした。そこには小さな箱があり、中には地図の切れ端と古い航海図のような線が入っている。線は地表の隆起を示すように走り、ところどころに小さな丸印が打ってある。丸印のひとつは王都の近くの山岳を指していた。別の丸印は、王都の地下に関わる支点のように見える。リュートはその図形に指を這わせ、やはり月光に透かして見た。丸印のひとつの上には、薄く鱗のような線が補助線として添えられている。地図と鱗が接続しているなら、何らかの関係がある。彼の前世の習性がささやく――この手の証拠は、保存して誰かに渡すべきだ。しかし兄の手袋を剥ぐことはしない。彼はそっと地図を元に戻し、箱を閉じた。
窓の外から風が吹き込み、羽のように白い布がひとつ、低く揺れた。月光はゆらめき、鱗の光沢も揺らいで一瞬見えなくなる。リュートは胸の内に小さな拍子を感じた。三拍。幼竜ガンツの羽音を思い出す。三つの小さな鼓動が、部屋の中で音にならずに伝播した。彼はその拍子を追う――短、長、短。だがここでの意味は確定できない。彼はただ、意味の音楽としてそれを覚えた。
「取っていくな」
その声は低く、そして意外にも隣室から聞こえた。リュートは振り返る。兄の顔を見ないわけにはいかなかった。部屋の隣の扉が開き、薄暗い廊下から一人の老僕が覗いた。白髪混じりの髭が月光に鈍く光る。彼の視線はリュートの手元に留まった手袋にあり、そして戻った。老僕は言葉を続けず、ただじっと見ているだけだった。警告であるのか、歓迎であるのか。その表情は読み取りにくい。リュートはその沈黙を、月譜解読の幾