白砂月時計のルゥン

白砂月時計のルゥン 第9話「第8章」

冷気が骨の芯まで回る地下空洞で、音はもう声ではなかった。規則正しい振幅が、空気の粒子を擦って淡い光の輪となり、彼らの胸にひっそりと落ちてくる。銀色の細い線が、壁の機械とルゥンの掌の間で震えていた。線の震えは鼓動にも、呼吸にも似ていて、耳に近づけると十三拍のどれでもない、新しい拍が混じるのが分かった。

冷気が骨の芯まで回る地下空洞で、音はもう声ではなかった。規則正しい振幅が、空気の粒子を擦って淡い光の輪となり、彼らの胸にひっそりと落ちてくる。銀色の細い線が、壁の機械とルゥンの掌の間で震えていた。線の震えは鼓動にも、呼吸にも似ていて、耳に近づけると十三拍のどれでもない、新しい拍が混じるのが分かった。

「ずれが一つに収束してる」エドが言った。懐中時計を握るその手が一瞬強く白く光る。盤の針は微かに速さを取り戻したが、ふたたび黒い影に引かれているようで、不安定だった。

ミナは顔を上げずに地図を畳んだ。ほこりの中で彼女の唇が薄く震える。ノクは鼻を地面にすりつけ、背を丸めて銀線の匂いに耳を傾けている。シアは目を閉じ、唇だけで小さな拍を繰り返していた。四人の動きはばらばらだが、音の位相だけはひとつに合っていた。

「これを、直すのか」ミナの声は短かった。彼女は言葉の代わりに目でルゥンを見た。問いというより、迫り来る事実の受容を求める目だ。

ルゥンは第一針を胸元に押し当てた。冷たさが骨を走ると同時に、心臓の外側に何かが触れたような、違和感が波及した。銀線は彼の掌の先で絶えず細く光る。彼の能力は触れたものの「刻まれたずれ」を読み取る。波形に対応する順序、破綻の形、直すべき一点を示す銀の線。だが、その代価はいつも隣に立っている——修理のたびに、彼の記憶が一時間分、あるいはそれ以上、消えていく。

「俺は、未来は見られない」ルゥンは言葉を吐いた。声に震えがないのは嘘だ。彼は、自分が抱える呪いを知っている。前世の朝倉透のときも、あの瞬間も、彼は決断を先延ばしにしてしまった。あの事故で、自分は──救えるはずのものを見殺しにした。その罪が、ここへ来て何度も顔を変えて彼を追う。ヴァルガの言葉が、時折耳の縁で鳴る。「時間を止めれば、失うことはない」と。

ミナがぐっと拳を握った。息を吸うとき、白砂の匂いが彼女の肺を満たす。どこかで誰かの咳が聞こえるような気がした。クレセントの夜が三日遅れているせいで、薬草は遅れ、呼吸は重い。待てば明日が来る。しかし、その 明日 がどれほど人を待たないかを彼女は知っている。

「一度に戻せるのは一つだけなんだろう?」シアの声はいつもより薄い。彼は小さな木片を指で撫で、十三拍を口にしている。彼の唱える拍は、微妙に機械の答えと合っていた。彼の翻訳はいつだって直接的だ。月の音が何を命じているかではなく、機械が何を求めているかを伝える。

「一つだ」ルゥンは掌の銀線に視線を落とす。そこに映るのは、薄く曲がった家屋の屋根の影、冬の匂い、誰かの真夏の笑い声──一つひとつの像が、線のほころびのように流れている。線には重なりがあって、二重に見える部分は危険度を示している。ここの重なりは深く、もし放っておけばずれは拡大し、クレセント全体の年輪が一気にずれるかもしれない。

「直すために」ミナが言いかけた。言葉は途切れ、彼女の眼がじっとルゥンの顔を掴んだ。「忘れるのは——」

「分かってる」ルゥンが遮る。言葉に温度はない。彼はその約束をしてきた。力を使うたびに失うものがあることを。だが、仲間の手が届く距離にいるとき、彼はまた躊躇いを感じる。前世の夜に、自分は時計を守ったことで人の命を逃がした。あのときの感触をまた繰り返すのか──と恐れる。だが今、もし彼が手を引けば、ここで起きている変調はきっと続き、冷却装置の暴走で何百という「明日」が消えるかもしれない。

エドがそっと前へ出た。懐中時計を胸の中心に当て、金属の冷たさを顔に近づけた。彼の指先は震えていたが、顔には決意があった。「兄弟を、妹を守るためにここまで来た。お前がやるなら俺は背中を預ける」

その言葉が出ると、ミナの肩の力が抜ける。ノクが鼻先でルゥンの手を舐め、銀線の震えが一瞬だけ強くなった。シアが一拍、一拍と声を重ねる。空洞の中でリズムが固まる。彼らが一つの呼吸を合わせるように、ルゥンの決断は固まった。

彼は手袋を外した。皮膚が冷気に触れるとき、銀線の光はまるで水面を切るように波打った。彼は線に指を這わせ、触れた瞬間に見えたのは──母の声だった。あの、半分朧げな、どこか懐かしい声。工房の木の床、鉄の匂い、母が言った言葉の一節。彼はその声に絡め取られるようにして過去を辿った。

「直せないものを直すなら、何を残すか──って言ったな」ルゥンの喉が震えた。言葉を口に出すことは、その記憶を世に晒すことでもある。彼は前世の朝倉透として聞いたあの言葉をずっと胸に抱えていた。それが、今ここで彼を後押ししているのかもしれない。記憶は罪でもあり、羅針盤でもあった。

銀線は固く、しかし脆い。彼は息を止め、線を引き抜く覚悟を決めた。引くという行為は、過去の歪みを物理的に取り去ること。だが同時に、彼の中の一時間分の記憶が抜け落ち、吸い出されるように消える。どの時間が消えるかは制御できない。小さな盗人が夜中に枕元から一つだけ奪っていくように、彼の中の一片が消え去る。

「来い」ルゥンは短く囁いた。指先に力を入れる。銀線が確実に彼の皮膚に食い込み、冷たさが肉を通して骨まで伝わる。皮膚がひりつく感覚とともに、線の表面がゆっくりと膨らんだ。光が指先を伝わり、彼の意識の端に何かが引き寄せられていく。

引いた。

それは音にも似た衝撃だった。銀線が抜ける瞬間、空洞の空気が一度吸い込まれるように静まり、そして音が戻ると同時に何かが欠けた。ルゥンの胸の中で、温かいものが消え去る。母の声が丁度そこで終わるはずの言葉を置いたまま消え、続きは空虚な空白になった。

彼は一瞬何が起きたのか分からなかった。指先に残る冷たさの代わりに、温度を計ることのできない穴が出来ていた。心の中に手を入れて探ると、そこには皮膚のしわのような、触れても掴めない切れ端しかない。彼は自分の口を開け、母の名を呼んだが、音は喉の奥で空転した。石の器が風で叩かれるような、薄い音しか返ってこない。

「ルゥン!」ミナが叫んだ。声が震え、彼女は一歩寄って彼を抱きしめようとするが、なんとも言えない遠慮のようなものに手が止まる。エドは顔を顰め、懐中時計を握る手が強くなった。シアは目を見開き、十三拍が一つ消えたように途切れた。ノクは鼻を鳴らし、彼の膝に頭をすりつける。

ルゥンは目を閉じた。暗闇の後ろに、欠けた時間の糸がちらつく。彼は何か大切な断面を失ったことを直感したが、それが何かは指先で確かめられない。忘却は色を奪った。目の前の風景からひとつの色が抜け落ち、空気の質感が薄くなる。母の声だけではない。工房の木の音、前世のある冬の日に踏んだ雪の匂い、透として最後に見たあの時計の秒針の進み方——。

「何を失った?」エドが静かに尋ねた。問いは責めではなく、確認だった。

ルゥンは自分の口元を触った。そこにあるはずの言葉の一節を探る。だが探れば探るほど、穴は深く、答えは薄くなっていく。彼が覚えているのは、母が確かに何か言ったという感覚と、その言葉に従いたかったという重さだけだった。言葉の中身は、風で消えた砂の模様のように消えかけている。

「……母さんの声だった。そこまでは」ルゥンは小さく言った。唯一残ったのは、声の輪郭だけ。