こども王 第1話「序章」
朝の光は弱く、王子の寝室に差し込んでいた。枕元の銀箱はわずかに開き、その隙間から金属が触れ合う低い音がする。箱の中であらわれたのは、指先を何度も超える大きさの王冠だった。光ってはいるが、重さと不釣り合いな鈍い圧が辺りに漂っている。リクは思わず指を伸ばし、冷たい縁に触れて手を引いた。触れるときに、まるで何かが抜き取られるような小さな怖さが胸の奥に残った。
朝の光は弱く、王子の寝室に差し込んでいた。枕元の銀箱はわずかに開き、その隙間から金属が触れ合う低い音がする。箱の中であらわれたのは、指先を何度も超える大きさの王冠だった。光ってはいるが、重さと不釣り合いな鈍い圧が辺りに漂っている。リクは思わず指を伸ばし、冷たい縁に触れて手を引いた。触れるときに、まるで何かが抜き取られるような小さな怖さが胸の奥に残った。
「……これが僕の王冠か」
鏡に映った自分は十歳の顔だった。頬には丸みがあり、髪は短く乱れている。だがその目には前世の疲れが残っている。会議、相談記録、夜通しの電話。児童相談員として子どもたちの声を聞き続けた日々の匂いが、ここでも鮮烈に蘇った。あの頃と同じように、誰かの選択を奪われる瞬間を見過ごすわけにはいかない。
廊下では侍従のトーマスが待っていた。小柄で動きはきびきびとしているが、その目はいつもより慎重にリクの顔を測っていた。
「殿下、城下の学校へお出ましになれば、児童たちも大喜びいたします。今朝の巡回にお供を――」
「行く。今行きたい」リクは即答した。言葉は短いが揺るぎない。前世での癖が胸を刺し、説明より先に身体が動いた。
城門をくぐると、空気が変わる。市場の呼び声、布の擦れる音、子どもたちの戯れ声。貧しい校舎の前に集まる顔ぶれを見て、リクは胸の奥の固さを強く感じた。木陰の片隅で、小柄な少女がしゃがみこみ、紙切れをぎゅっと握っている。髪は乱れ、目の端に薄い傷跡があった。リクが近づくと、少女は顔を上げて警戒を崩さなかった。
「どうしたの?」リクが声をかけると、少女は小さく震える声で言った。
「先生が……先生が言ったんです。国のために、って。奉仕隊って。わたし、行きたくない。勉強したいし、お母さんといたい」
その言葉は短く、でも重かった。リクの身体に前世の光景が転写される。制度に押しやられる小さな声、誰もが「仕方ない」と言ってしまう瞬間。少女の握る紙切れに目を落とすと、そこには乱暴だが力のこもった字で「学校を守って」と書かれていた。子どもの字だ。
「これ、君が書いたのか?」リクが尋ねると、少女は頷いた。「殿下なら、聞いてくれるかと──」
そのとき、教壇の方から教師がやってきた。アデルという名のその中年の教師は、殿下であるリクに敬礼したが、目には疲労と何か諦めに近い影があった。
「殿下、児童たちのことを憂いてくださるとは。だが儀礼の準備でして……」言葉に含んだ揺らぎをアデルは隠せなかった。
リクは少女の目を見返し、ゆっくりと言った。「君の声を聞く。ここにいる誰もが、望まない戦いに駆り出されないようにしたい。僕は──法律を書き換える。一度に全部は無理でも、戴冠式までに子どもを守る何かを作る。約束するよ」
その約束は、小さな波紋を広げた。教師のアデルは微かに息を吐き、唇を噛むようにしてから言った。
「……殿下、それを、公に動かすつもりですか?」
「動かす。けど、独りで決めるつもりはない。僕の力は、特別だ。けれど制約がある」リクは口から出すように、言葉を選んだ。「僕の力は、『僕より年下の人が、自分の意志で出した願い』だけを、一日だけ『王の命令』として実現できる。自分が代わりに願えば駄目だし、誘導すれば暴走する。使う度に、僕の年齢が一日だけ進む。それが代償だ」
言葉は重かった。アデルの手が小さく震え、トーマスは顔を僅かにこわばらせた。リクは続ける。
「だからやり方が重要なんだ。子どもたちが自分で書く。それを僕が読む。彼らの意思そのものが、法律の一日になる。誘導が入れば、力は制御を失う。僕はそれを恐れている。幼さを一日でも奪われるのは、僕にとっても大きな損失だから」
アデルはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと首を振った。「それなら、私が手伝いましょう。子どもたちが自らの言葉を紡げる場をつくる。教師としてそれを守る責任があります。殿下の力に頼るのではなく、彼ら自身の声を、記録として残す手伝いをする」
その意志表示は自然で、強制の色はなかった。リクは安堵を感じた。誰かが自分の責任として動くということが、何より彼にとっての救いだった。トーマスも小さく頷き、城へ戻って手続きを整えると申し出た。三人の間に静かな決意が生まれる。
「儀礼の名に紛れて、子どもが動員されることはよくある」リクは続けた。「封筒が配られているのを見た。『奉仕隊』の募集だって。大人たちはそれを勤労奉仕だと呼ぶかもしれないが、僕は前世で聞いた。『仕方ない』で片づけられる子どもの生活がどれほど壊れるかを知っている。だから制度を変える必要がある」
そのとき、学校の脇を通りかかった役人の一団が、白い封筒を配っているのが見えた。受け取る者たちは厳かな面持ちだった。役人の一人がリクの方をちらりと見て短く会釈し、誰かの名を小声で口にした。リクはその声を聞き取り、血の奥が冷たくなるのを感じた。「宰相グレイの命で、式を盛り上げろと」
宰相の名はリクの胸に一層の緊張を残した。彼はまだ具体的に敵と拳を交えるつもりはない。だが「戴冠式を理由に動かす大人たち」が、今の目先の敵だという理解ははっきりした。式が近づけば近づくほど、大人たちの決断が、子どもたちの生活を一方的に変えてしまう。
夕方、城の執務室で侍従長は落ち着いた声で言った。「殿下の戴冠式は来月初めでございます。式の準備には多くの手配が――城下の支援も必要で」
リクはテーブルの上に置かれた文書をめくり、別紙に押された判の文字を指で辿った。小さく書かれた一行は冷たかった。『奉仕隊名簿作成義務』。逃げ場のないはめ書きのように見える。
「支援に、子どもを含めないでほしい」リクが短く言うと、部屋の空気は一瞬静まり返った。侍従長は言葉を選びながら答えた。「法と慣例がございます。すべては大人の会議で決まることです、殿下」
「だから、僕がそれを変える。まずは小さな一歩を──学校の条例で一日でも子どもを守る場をつくる。そこから、法を、制度を変えていく」
王冠は箱の中で静かに揺れていた。眠りにつく前、リクはもう一度その縁に触れてみる。冷たさは変わらないが、触れた瞬間にふと、時間の砂が指の間をすり抜けるような感覚がよぎる。使えば一日を奪われる。誘導すれば力は暴れる。だが黙っていることは、もっと多くの声を奪う。
城下の鐘がゆっくりと時を刻む。窓の外で誰かが封筒を配る音がまだ残る。リクは目を閉じ、胸に灯った小さな炎を見つめた。
「子どもを、戦いに出さない法律をつくる。僕が王になる前に、やらなければならないことがある」
隣にいるトーマスと、明日から子どもたちの言葉を守ると約束したアデルの顔を思い浮かべる。二人は誰かに強制されてではなく、自らの判断でその輪に入った。リクはそれが一番大切だと知っていた。
箱の王冠は、箱の中で微かに光を落とした。重みはまだ消えていない。だがその重さに抗うように、リクは両手を握りしめた。明日、学校へ戻れば、子どもたちの筆先が小さな法律の始まりになるかもしれない。まだ何も決まってはいない。だが守るべき声は、確かにそこにあった。