舟歌い 第9話「第8章」
潮の匂いが混じった夜風が、サラの肩越しにふわりと流れた。彼女は細い手で半分だけ残った木製の笛箱を押さえ、もう一方の手でルカの腕を軽くつねった。ルカは驚いた顔で目を細め、ミナは遠慮がちに唇を噛んだまま背後の路地を窺っている。
潮の匂いが混じった夜風が、サラの肩越しにふわりと流れた。彼女は細い手で半分だけ残った木製の笛箱を押さえ、もう一方の手でルカの腕を軽くつねった。ルカは驚いた顔で目を細め、ミナは遠慮がちに唇を噛んだまま背後の路地を窺っている。
「今、確かめなければならない。封じられた理由を。あの水門がどうして上町のためだけに閉じられたのか。私たちを置き去りにしても、彼らは本当にそれを『均衡』と呼べるのかを――」
サラの声は低かった。言葉の端にあるのは、昨日の公文書庫の薄暗い間から盗み出した一枚の紙切れ、古い墨跡に押された官印と、そこに書かれた冷たい一行。「上町の安全を維持するため、下町水門の封鎖を命ず」。それが目に焼き付いて離れない。守る対象は下町の人々、早くも彼女に頼り切った子どもたちの名と、避難の声を上げた老女たちの不安だった。
「誰かが、理由を自分たちで語ってくれない限り、嘘でも真実でもわからない。エルドは『秩序』と言う。だが言葉だけで人を閉じ込められるのなら、私たちは声で返すべきだと思うんだ」サラは笛箱の端を撫でた。半分だけの舟歌。木の内側に浅い刻みがあり、そこに残る一節だけが、いつも夜の夢に浮かぶ。
ルカはそっと首を横に振った。「俺たちで行くのか? 上町の門前をうろつけば捕まるぞ。あそこは……警備がきつい。俺はまだ腕も足も弱い」
「わかってる」サラは顔を上げ、二人の目を見た。「だから、音は使わない。聞くために行く。声を使うときは必ず二人以上が同じ旋律を出せる場所で、しかも互いの声が遮られないこと。これが条件だってことは忘れないで」
ミナが小さな笑いを漏らした。彼女の家は上町と商いをしている。表情に出すまいとしているが、指先は微かに震えていた。「私にとっても上町は恩人よ。家の品物はあそこを通ってた。でも、最近の検査で何度も荷を拘束されて、家業にも影響が出ているの。真実があるなら、知りたい。でも、騒ぎにはしたくない」
「それでいい。誰かを誘って感情のままに動くんじゃなく、情報を集めてから判断しよう」サラの声はいつもより慎重だった。彼女の能力は、どうしても道具になりがちだった。歌で水面に航路を生むことはできるが、誤れば水は荒れ、聞こえ合わなきゃ逆流する。能力は強力でありながら不安定で危険だ。だからこそ彼女は、今回、歌を先に使わないことを選んだ。情報が先だ。
三人は堤の影を伝って上町の城壁へと近づいた。街灯の間隔は上町側に行くほど狭まり、石畳に映る影の縁取りが鋭くなる。守衛が歩哨の足音を刻む。上町の壁は下町のそれより堅牢で、何度も改修された齟齬が岩肌に残る。城門近くには水門の管理事務所がある。そこに封鎖の決定書の原本が保管されていると、噂に聞いたからだ。
「正面からは無理だ」ルカが吐息を漏らした。「裏手の倉屋伝いに行けば、記録室に通じる古い通路があるって、聞いたことがある」
「それで行こう。見つけても騒がない。聞いて、記録を盗み出すんじゃない、写真でも写す。誰にも知られないように、死角で――」サラは言葉を飲み込んだ。問いかけはいつでも危うい。上町の人間が本当に何を守りたかったのか。封鎖に署名した者の名は、紙の上では一行だったが、その意味は何層もの決断と口実に支えられているはずだ。
路地の角を折れると、古い倉屋の屋根の影で一人の男が立っていた。手に提灯を持ち、通りに置かれた札を取る作業をしている。男は見回すと走り寄って来た。ミナが咄嗟に顔を伏せ、ルカは手にした小さなナイフの位置を隠すようにした。
「こんな夜に何をしている」男は穏やかな声だったが、目は険しい。上町の役人か、あるいは見張りの一員だった。だが男の服装には下町の泥がついている。顔には見覚えがあった。先月、下町から上町へ品を運んだ際に世話になった荷役の一人だ。
「あなたか、ミロ。こんな夜に札の整備を?」ミナが息を潜めながら話しかけると、男は一瞬安堵したように笑った。
「おお、ミナか。娘さんの顔も覚えてる。こんな夜だから、文句を言われやしないかとね。上は表向きは厳しいが、実際は色々と……」ミロは言葉を濁し、周囲を窺った。「お前たち、何の用だ。ここでウロウロしてると疑われる」
サラは鼻歌のように半分だけの舟歌の一節を指でつまみながら、小さく口笛のように吹いた。音は短く、どこかにふっと消える。ミロがそれを聞いて、目を細めた。笛箱の刻みが共鳴したかのように、彼の表情が変わる。
「その旋律……」彼は吐息交じりに呟いた。「昔、鐘の下で歌われたって言われてるやつだ。半分だけ、誰かが忘れてほしくて残したんだって」
サラの胸が跳ねた。だが、問いを深める前にミロは首を左右に振った。「ここで話すには危ない。上は夜でも見回りが多い。だが、もし本当に知りたいなら、明日の昼に教会の裏手に来い。図書係の老女が鍵を持ってる。彼女は上の秘密に疎いが、古い記録は手放さない。そこでならゆっくり話せる」
ミロの言葉は助けであり、罠でもあった。三人は互いに目を合わせると、静かに頷いた。夜の匂いが一層冷たくなった。
翌日の図書室は、湿った紙と古い木の匂いで満ちていた。日差しは上町の高い窓から差し込み、埃が空気中でゆっくり踊る。図書係の老女は少し目が悪かったが、記憶は鋭かった。サラが半分の舟歌のことを口にすると、老女の手が震えた。
「……沈んだ鐘かね。あれはもう、昔のことよ。だが、鐘の音が一度水に落ちると、街の記憶は綻ぶという話がある。上は、それが嫌だったんだ。下町の声は強く、上にまで波及する。『均衡』って言葉は、便利な言い訳よ。均衡を守るため、何かを押し込めるのは簡単だからね」
老女は古い巻物を引き出し、そこに記された会議の要旨を指でなぞった。そこには「均衡維持」とか「下町流動の制御」といった言葉が並んでいた。署名欄には水利長官の名、エルドの名があった。だが老女は眉をしかめた。「しかし、本当に不穏なのはその後の一行よ。『影響を最小化するため、音響制御の導入を検討する』。音響……制御? それは鐘の音を消すだけじゃなく、声を管理することを意味したのかもしれない」
サラは紙を握る指が白くなるのを感じた。声を管理する。歌を許可制にするという案は、単なる騒音対策とは違う。老女は小さく息を吐くと、机の引き出しを開けた。そこには小さな図面と、さらに古い紙切れがあった。図面には水門の内部構造が簡素に示され、曲線の中に鐘の形をした符号が幾つも描かれている。
「これは……」ルカが呟く。図面の一部に、鐘の残響を増幅する装置らしきものが付記されている。細い金属の棒が水路の内壁に沿って並び、共鳴室らしき空洞が示されていた。老女は頭を振った。「誰がこんな機械を作ったのか。記録は断片的よ。だが、上は確かに鐘と水を結びつけて扱ってきた」
ミナがふと顔を覆った。「もし音で人の感情や記憶を操作できるなら、上は『秩序』を保つためにそれを選んだのかもしれない。そうすれば、下町の騒がしい抗議も、小さな波に変えられる」
サラは目を閉じた。頭の中で、半分だけの舟歌が波紋のように広がる。沈んだ鐘の残響。もし上がそれを封じたのなら、封鎖は単なる防災策ではない。だが今の情報は断片だ。確証はない。