靴屋

靴屋 第10話「第9章」

朝の光が、薄い布を張った店先の屋根をすり抜けて作業台の木目を撫でる。カナタはボロ布を指の間に挟み、古釘を抜くようにゆっくりと息を吐いた。足元の木の床が冷たく、いつもより遠く感じられる。右足の裏で、小さな石ころが転がる感覚があった。――重み、というより、沈むような鈍さ。使いすぎた代償がまだ体の芯に残っている。

朝の光が、薄い布を張った店先の屋根をすり抜けて作業台の木目を撫でる。カナタはボロ布を指の間に挟み、古釘を抜くようにゆっくりと息を吐いた。足元の木の床が冷たく、いつもより遠く感じられる。右足の裏で、小さな石ころが転がる感覚があった。――重み、というより、沈むような鈍さ。使いすぎた代償がまだ体の芯に残っている。

「どうだ、何かわかったか?」

戸外の細い声に、カナタは顔を上げた。入口に立っているのはレオだ。幅広の肩にはまだ昔の軍服の切れ端を羽織り、腕には簡易の包帯。彼は此処の守り役ではないが、外で顔が利く。背後には小さな女の子、ミユが赤い靴の片方を掌に載せていた。靴は擦り切れているが、その縫い目と擦れた艶に、どうにも目が離せない何かがある。

「追手が増えた。赤い靴の痕跡を辿って、国境側の役所——記録係の部署まで話が上がってるらしい。ザイフの連中が、何かしらの台帳を当たってるという噂を、朝市で聞いた」

レオの言葉は重い。カナタは手にした釘を握ったまま、作業台に肘をつく。守るべき顔ぶれがすぐ近くにいる。孤児院の子どもたち——ミユを含めて数え切れないほどではないにせよ、ここに救いを求めて来る人々。カナタは彼らの目を見れば、何をするべきかがわかる。

「台帳――星印、だろうか」

ミユの声は小さかったが、確信に満ちていた。彼女は赤い靴を両手で抱え込み、時折触れながら続けた。「あの靴、役所の人が言ってた。星が刻んである靴は登録されてて——誰がどこに行ったか、全部書くって」

カナタの胸の中で何かが針のように刺さる。星印。足底に刻まれる小さい星の模様。その名を耳にするたびに、彼の中の職人としての興味と、救済者としての怒りが同時に沸き上がる。

「台帳を手に入れる。証拠が必要だ。ザイフのやつらが、これをどう使っているかを見せる。もし記録が本当に管理と徴税のために使われているなら——ここにいる全員の行き先と、子どもたちの居場所が危ない」

レオの眉が硬くなる。彼は侵入や正面衝突の過激さを避けることを常に考える男だ。だが今回ばかりは、躊躇が少なかった。彼はミユをちらりと見て、そしてカナタの顔を見た。

「お前、足は大丈夫か?」

言葉は直球だ。カナタは膝を伸ばし、床にかすかな跡を残して立ち上がる。足の底は鉛のように重く、膝が鳴った。

「まだ動く。だが長くは歩けない。靴を使えば人を導けるが、使うたびに足は重くなる。あいつらの記録を奪うには、現地へ行ける人員が必要だ。レオ、アイラはここにいるか?」

「いる。そいつが今回の鍵だ」レオは言って、入口の方を指した。細身の影が屋根の影から滑り出て、黒い服に身を包んだ女が工房に入ってきた。瞳は夜目が利く猫のようで、所作は無駄がない。アイラ。街の狭い路地を熟知し、鍵と嘘と囁きを扱う女だ。彼女は自分の腕を見せるように小さな布袋を開け、中から銀の細い道具をさらした。

「役所の裏口は二つ。昼は人が多くて無理。夜の巡回が少ない時間帯を狙う。私一人でも入れるかもしれないけど、台帳は厳重に保管されてるだろう。最低でも誰かに館内まで案内してもらう必要がある」

カナタはその時、選択肢が頭を巡るのを感じた。自分の手で行くか、人を導くことで間接的に台帳に触れるか。靴の呪いは厳しい。履き手が自分の言葉で目的地を言った靴だけ、安全な足取りを一度だけ記憶して迷路を案内する。だが嘘の目的地を言えば靴底は裂ける。使うほど、カナタ自身の足が重くなり、いずれ歩けなくなる。彼はこれまでに幾つもの夜を費やして子どもを一人、また一人と連れ出した。その度に足は鈍重になり、今はもう走ることもできない。事実を隠す理由はない。だが今回、台帳を奪えば未来の救済のための武器を手に入れられるかもしれない。

「僕が直接行くのは得策じゃない」カナタは短く言った。「この足じゃ長く動けない。だが靴は渡せる。君が履けば、目的地を口に出して、靴が道を覚える——ただし、一度きりだ。嘘を言ったり、誰かの指図で違う場所へ導こうとすれば底は裂ける。履いた人の言葉だけが効く」

アイラは一瞬、鋭い笑みを浮かべたが、すぐに真剣な顔に戻る。「それでいい。私が履く。目的地は『記録室の戸棚の左側、古い木箱の中』とだけ言えばよいんだな?」

レオが制した。「待て。そんなに単純じゃない。台帳は人目に付かない場所にまとめられてるかもしれない。役所の記録は複雑だ。目標を言わせる前に、どうやって中へ入るか、守衛がどう動くかを確かめる必要がある」

「そこは私がなんとかする」アイラは肩をすくめた。「路地の連中から午前の巡回スケジュールは仕入れてある。裏口はいつも鍵がかかっているが、見張りの位置は一定だ。問題は館内の配置だ。もし私が最短のルートで棚までたどり着ければ、台帳を持って出る時間も稼げる」

ミユはそのやり取りをじっと聞いていたが、口を開いた。「でも、アイラさんが行くなら、私も一緒に行く。赤い靴のこと、私も知りたい」

カナタはミユを見た。彼女の瞳には恐れと好奇心と、何か確固たる意志が混じっている。守るべき対象である孤児院の子どもが、主体的に参加を望む。カナタは彼女を止めたい気持ちがあったが、同時に尊重せねばならないことを知っていた。仲間は道具ではなく、自分の意思で関わる人々なのだ。

「無理はさせない。だが行くなら、準備は徹底する。ミユには別の仕事を与える。台帳が見つかったら、記録の写しを路上の見張りに渡して逃げ道を確保すること。アイラ、君の腕を信じる。だが目的を言うときは正確に。あの靴は嘘を許さない」

アイラは小さく頷き、赤い靴を差し出して受け取った。布に包まれた靴は微かに湿った羊革の匂いを放つ。カナタの掌から靴を受けると、アイラはわずかに緊張したように息を整えた。彼女は自分の口で目的を述べる。言葉は簡潔で、だが意味は厳密だ。「記録室の左側の棚、古い木箱の中。台帳の中に星の印があるものを一冊」

それは嘘ではない。彼女の口から出た言葉は、欲するものを具体的に指した。靴はその言葉を喰らい、内部で小さな過去の足取りを記憶する。カナタはその感触を手に残る重みで感じた。彼の体内に、またひとつ代償の石が置かれるのだ。

「行ってこい」カナタは短く告げた。自分が現地へ赴くことを諦めている代わりに、彼は仲間を導く役になった。準備は速やかに進んだ。レオは外回りの見張りを確かめ、ミユは抜け道担当として路地に待機。アイラは黒い覆いをまとい、赤い靴を片足に滑り込ませた。足に靴が触れた瞬間、アイラの表情が一瞬だけ緊張して引き締まる。履き心地は懐かしいもののようで、どこかが違う。靴はただの道具以上のものだった。

夜闇が訪れる前に、彼らは動き出した。役所の建物は迷路のように配置された古い行政区画にあり、通りは夜になる前に人を吐き出して静まる。アイラは黒衣の影となって溶け込み、カナタは表通りの端で動きづらい足を擦りながら息を殺す。足の重さは、一歩ごとに心臓へと響く。靴の使い手を導ける間に、彼はどうしても出来ることがあるはずだ。だがそれは、仲間たちが信用できるという前提がなければ成立しない。

夜は深く、役所の窓はところどころに明かりを残していた。巡回の足音が規則正しく木