虫使い 第10話「第9章」
朝の井戸は薄い靄(もや)をまとっていた。水面に反射する太陽はまだ冷たく、村人たちの動きは低い声で繋がれている。ミオは井戸の縁に腰掛け、指先で蜜蝋を軽くすりつぶすようにこねた。掌に広がる甘い香りが、彼女を落ち着かせる。今日、王都の役人が来る。彼らは井戸の水を検査すると言い、村の安全を確かめるふりをして、書類と印章を持ってくる。ミオは、それが事実かどうかを確かめに来たのだ。
朝の井戸は薄い靄(もや)をまとっていた。水面に反射する太陽はまだ冷たく、村人たちの動きは低い声で繋がれている。ミオは井戸の縁に腰掛け、指先で蜜蝋を軽くすりつぶすようにこねた。掌に広がる甘い香りが、彼女を落ち着かせる。今日、王都の役人が来る。彼らは井戸の水を検査すると言い、村の安全を確かめるふりをして、書類と印章を持ってくる。ミオは、それが事実かどうかを確かめに来たのだ。
「ミオ、無理すんなよ」隣に立つのはヤン。木こりだったが、伐採の噂が広がって以来、村の見張り役を買って出ていた。ヤンの手には小さなノートと鉛筆。彼はミオが何をしたいのか、指先の蜜蝋で知っている。ミオは顔を上げ、ヤンに短く笑って手を振った。
「今回こそ、隠されるかもしれない。私たちは井戸がおかしいって言った。証拠がないって言われたら、終わりだよ」
ヤンの額にしわが寄る。背後では、養蜂箱を見張っていたカナが低く呼吸を整えていた。カナは長年、ミオと蜂の世話を手伝ってきた仲間だ。彼女の腕には蜜袋を縫い付けた小さな布袋があり、中には新しい蜜を混ぜたスポイトが一本入っている。カナはミオの顔を見て、はっきりと言った。
「でも、あの役人たちを追い返しても、彼らは別の証拠を作ってくるかもしれない。力づくで押し切られる可能性もある。ミオ、あんたはあの女王蜂を守りたいんだろう?今、危険を冒して隠されたら、何にもならないよ」
ミオは掌の蜜蝋を額に当てて、押しつぶす。白い蝋の線が切れて流れる。女王蜂の羽はまだ完全じゃない。序章で見つけた羽の欠けた白蜂は、いまもミオの一番近くの箱にいる。女王を失えば、ミオは三日間、虫の羽音を聞けなくなる——その代償は既に身体の奥で脈打っている。彼女の能力は、彼女が世話した虫だけに伝言を託せる。しかし、命令だけで使うと群れは散る。友好的な合意がなければ、羽音は空虚に消える。
役人たちが広場へ入ってきた。黒い縁取りのある灰色の外套、金色の小さな印章を胸に付けている。先頭を歩くのは、書記のような男だ。彼は小さな瓶を取り出し、慎重に井戸の水をすくって試験管に注ぐ。村人たちの視線が一斉に集まる。ミオは息を飲んだ。彼女はここで感情的に叫ぶのをやめ、代わりに静かな合図を考えていた。
「検査は滞りなく行う」書記が言った。声は丁寧だが、どこか余裕がある。ミオはそれを読み取り、膝に隠した小さな布箱に手を伸ばした。布の中は白蜂の居場所だ。彼女は箱を開け、女王に一番近い小さな群れをそっと撫でる。指先が羽に触れると、羽音の輪郭がふわりと脳裏に浮かぶ。だが、羽音はまだ言葉にならない。短い伝言しか託せない彼らは、向ける方向が大事だ。
ミオは仲間たちの方を見た。ヤンは井戸の脇で肩をすぼめ、カナは手旗を腰に結び直している。村の長老、ハナも近くにいた。ハナは鋭い目をしていて、役人を一瞥してからミオに軽く頷いた。ミオはその頷きを受け、深呼吸しながら布箱を口元に寄せ、低い声で囁いた。
「お願い、飛んで……『不味い』を伝えて」
だが、「命令」という形は使わなかった。ミオはいつものやり方で、餌を差し出し、羽を撫で、群れにとって心地よいリズムを作る。合意というかたちで、虫たちは自発的に舞い始めた。羽音が小さく、しかしはっきりとパターンを描く。ミオはその模様を思い描きながら、群れの中に短い言葉を紡ぐ。怖れと警告と、ほんの一節——「汚染」と呼べるものを彼女は織り込んだ。
しかし、役人の一人がふいと振り向き、鳥の羽のように美しく舞う群れに気づいた。書記の顔が一瞬僅かに変わった。彼は近寄ってきて、目の前で試験管を掲げた。太陽を透かした水は澄んでいた。書記はにやりと笑い、小さく言った。
「問題なさそうですね。割り当てられた手続き通りに文書を作りますよ。村のご不安もこれで解消されるでしょう」
彼は試験の数字――酸度や濁度を記した紙を取り出すと、表面をさっと指でなぞった。だが、紙の角が折られていて、インクの一部が擦れている。ミオの目はそれを逃さなかった。紙は都合のいい値に書き直されたように見えた。彼女は舌打ちしかけて、すぐに押しとどめる。感情をぶつければ、ここで女王の群れが興奮し、命令的な態度が出てしまう。そうなれば群れは散ってしまう——最悪、女王に傷が付くかもしれない。
「報告書は、都に送っておくのがいいでしょう」ハナが静かに言った。彼女の声には力がある。村人たちは皆、ハナの言葉に耳を傾ける。ハナは村の過去を知り、手続きの習いを知っていた。彼女は書記に丁寧に近づき、声を落としてこう続けた。「この村は独自の観察も続けています。どうか、都でも併せて見ていただけますか」
書記は笑顔を保ち、しかし手元の紙をひっそりと折り直した。ミオはその所作を見逃さない。紙を折るとき、彼の親指に埃のような黒い粒がついていた。そこには、森の深部から採られた樹脂に特有の色が微かに付着していた。ミオの胸にひんやりしたものが走る。樹脂と都の役人の手つき——何かが、都が関わっていることを示している。
ヤンが小声で言った。「あいつら、結果を都合よく作る。もしこれが都の都合なら、伐採の口実を残せる」
「それなら、正面から争うの?」カナの声は震えていた。彼女はまだ若く、けれど意志が強い。彼女は村のために戦いたいが、力に頼らずに人々の判断を増やす、というミオのやり方を理解し始めている。カナはミオの顔を見た。「ミオ、あんたどうする?」
ミオは女王の箱をしっかり抱き寄せた。羽の欠けた白蜂が箱の奥で小さく震えている。ミオの心の中には、三日間の沈黙の影がちらつく。女王を危険に晒してまで役人の不正を暴くのは、自分の力の使い方ではない。彼女は決断した。
「公開するの」ミオは声を落として言った。「都の書類に頼らない。ここで、みんなの前で、虫が伝える井戸の異変を見せる。役人の書類がどうであれ、人々の耳と目には嘘はつけないようにする」
その言葉は、村の広場に小さな震えを起こした。だが賛同の声がすぐに返ってきた。ハナはゆっくりと頷き、ヤンは拳を固めた。カナの顔に光が差し、幼いが確かな決意が見える。
「でも、どうやって?役人が邪魔してくるよ。彼らは騒ぎを抑えようとする」ヤンは即座に反論する。現実の力がこう言っているのだ。役人たちには守備の兵や法の名の下に封じる力がある。
ミオはまた女王の箱を撫で、声をさらに小さくした。「私だけの羽音じゃ足りない。短い伝言しかできない。でも、私たちが合図を理解する訓練をすれば、虫はそれを会場の上で作ることができる。デモンストレーションをする。都の書類の数値を待つんじゃなくて、みんなで井戸の水と虫の反応を見せる。私は彼らを説得する。強制ではなくて、一緒にやる方法を」
「説得って、虫を説得するの?」カナが戸惑う。「それって大変だよ。命令でやれば簡単なのに」
「命令だけでやれば、彼らは散るし、私たちは女王を失うリスクを負う」ミオは静かに返した。「それに、命令で強制してしまったら、私が自分の能力を兵器にしたと同じだ。私はそれをしたくない。私たちが合意してやるんだ。あの羽音を、みんなの口に届く合図にする」
ハナが指で地面を小さく叩いて言った。「それなら、まずは村の代