絵描き 第11話「第10章」
ナオは、朝の湿った空気を吸い込みながら、広場脇の低い石段に腰を下ろした。手元には半ば乾いたままのパネルが積み重なっている。昼前には街角で小さな説明会を開くつもりだった。あの夜の混乱で途切れた通路を補修し、信頼を取り戻す──それが今、ナオにできる最も具体的なことだった。
ナオは、朝の湿った空気を吸い込みながら、広場脇の低い石段に腰を下ろした。手元には半ば乾いたままのパネルが積み重なっている。昼前には街角で小さな説明会を開くつもりだった。あの夜の混乱で途切れた通路を補修し、信頼を取り戻す──それが今、ナオにできる最も具体的なことだった。
「今日は外に出る人、三人ずつで儀式をやる。歩いたルートを共有して、同じ絵を信じられるか確かめる。単独信仰は絶対だめだ。途切れたら誰かの記憶が抜ける可能性がある」ナオは短く告げると、パネルの一つをめくって、仲間たちの顔を見た。
マルクは看板屋の相棒で、粗い手つきに似合わない真面目な目をしている。レラは行商の女で、世間話の多さと同じだけ人の痛みをよく知っていた。ヒエは、かつて記録係をしていた老人で、空気の中の細かい危険を嗅ぎ分ける。背後には青く塗りつぶされた扉がある古い倉の壁が、いつも通り不穏に存在していた。あの青い扉はここに来るたび、どこか遠い日々の匂いを運んできた。
「今日の最初の班は、マーケットの路地を――」ナオが言いかけたとき、広場の入口から小走りに入ってきた一人が声を上げた。「見つけた。あいつ、捕まえました」
近づいてきたのはユルと呼ばれる若者だった。彼の手には薄い紙が握られている。紙の端には官吏の印判に似た黒い朱が押されていた。ユルの目は震え、胸の動きは速い。ナオは直感で嫌な匂いを嗅いだ。裏切りの匂いだった。
「誰を?」マルクが声を低くする。レラの手がナオの袖をぎゅっと掴んだ。ヒエは目を細めた。
「タメルです」ユルは息をつき、紙を突き出した。「昨日から妙に余所行きだった。屋台のそばで絵を消して回ってたところを、見たんです。あとこれ」彼は紙に押された印を指した。「渡される時に『上からの命令』って言ってた。『見えない道』は公共の危機だって」
タメル。ナオはその名で心臓が跳ねるのを感じた。タメルは仲間の一人で、絵の補助をしてくれる若者だった。足は早く、誰よりも旧市街の小道を知っていた。彼がスパイだとすれば、それは痛い裏切りだ。だが、ナオは一歩後ずさる。怒りより先に現場の事実を見定める必要がある。
「みんな、まずは落ち着け」ナオの声は冷たくなかったが静かだった。「ユル、どうやって見つけた?」
ユルは口をきしませ、細かく話した。タメルは昨夜、路地の壁画を二度塗りつぶしていた。塗りつぶしたのは、ナオたちが前日描いたはずの細い回廊の端。誰かが、確信をなくさせるために絵を消していた。ユルはそれを見て追い、タメルを路地裏で捕まえた。ポケットには官吏の小さな札、そして街区の地図に赤い点がいくつも打たれていた。そこには補修が必要と報告された路の位置が書き込まれていた。
ナオはタメルを探した。倉の裏手に連れて来られた彼は、顔色が土の色をしていた。腕には擦り傷。目は伏せがちで、言い訳の隙すらなかった。
「やったんだな?」マルクが詰め寄る。タメルはうなだれ、うなずいた。
ナオは瞬間、ためらいなく質問を始めた。問いは処罰ではなく事実を求めるものだ。どこから命令が来たのか、なぜ自分たちの絵を消したのか。タメルの返事は添え木のように細く、壊れそうだった。
「妻と子が、向こうの収容所にいるんです。書類を出したら、役所が……戻すって。記憶保全の手続きを受けさせるって言われた。僕が従えば、家族が帰れるって。それで」タメルの声は消え入るようだった。「最初は消すだけでいいって。公共の安全のためだって。僕は……僕はただ、彼らを連れてきたいだけだった」
その言葉が広場の空気を壊さずに通り抜けると、周囲の反応は即座に現れた。レラの目に怒りと哀しみが混じる。マルクの拳が震える。ヒエの顔が鉄のように固まる。ナオ自身の胸の中で、かつて誰かに守ると誓った声が鳴る。守る対象は自分たちだけではない。目の前の小さな共同体と、そこに頼りを寄せる人々の生活だ。
だが、怒りはすぐに別の苦さに置き換わった。タメルの行為は、ただの破壊ではない。絵を消す行為は、絵を信じる人々の「共信」を崩す。共同で信じることをやめれば、道は途切れる。しかも、ナオは知っていた。ある者が想像で穴を埋めようとすれば、その者の記憶が吸い取られてしまうということを。
「誰か、想像で埋めようとした者はいないか?」ナオが問うと、ヒエが首を振った。しかしレラが指を震わせながら前に出た。「いや、でも、カリナが……」彼女は小声で続けた。「絵が消えたって聞いて、あの子、自分が通った路を思い出しながら描こうとした。誰かが一人で信じて通れるか試したがって……」
その名でナオの胸が凍った。カリナは若い村娘で、年老いた母を助けるために毎日小道を往復していた。彼女は自分の足で何度も同じ路を踏んでいたが、その日の夜、消された回廊の継ぎ目を自分の想像でつなごうとしていた。ナオは駆け出した。彼女のいる小さな物置小屋に着くと、カリナは壁に向かって座り込んでいた。目は遠くを見ていた。
「カリナ」ナオがそっと肩に触れる。カリナは薄い笑みを浮かべるが、笑みの奥の目には欠落が見えた。彼女は昨夜、途中で自分の母の顔を思い出せなくなったという。名前が、いや、顔の輪郭が、ひとつひとつ刈り取られていくように消えた。ナオは胸を締め付けられた。想像で描こうとした代償が、ひとりの記憶を刈り取っていた。
「ごめんなさい」カリナが小さく呟く。言葉の重さは折れた枝のように震え、注意深く置かれた。ナオは彼女の手を取った。何も言わず、ただ手を握る。言葉は先を行くものではない。今は事態を収めることが先だ。
広場に戻ると、仲間たちは言葉の檻に閉じこめられていた。誰もが怒りと恐怖を行ったり来たりしている。誰かは即座の制裁を唱え、誰かは情報を洗い出すべきだと言う。ナオは深く息をついた。彼が取るべき選択は、アウトラインにあった決断そのものだった。タメルをただ追放し、誰もその理由を聞かずに閉め出せば楽だろう。だが、それは敵の望む分断だ。ミレイア側は、恐怖と喪失の縫合を利用して共同を壊そうとしている。
「暴力で解決するのは簡単だ」ナオは低く言った。「でも僕たちは、誰かの恐怖につけこまれて壊れる共同体を守りたい。タメルを問いただす。だが、排斥はしない。彼に聞きたい。誰が指示したか、なぜそう言われたのか。そこには個人的な喪失があるはずだ。まずはその声を聞こう」
空気が揺れる。マルクの唇が動く。怒りの波がまだ残るが、レラがひと息ついて頷いた。ユルの肩の震えはやや収まった。ヒエは冷たく「やられる前にやる」タイプの老人ではあるが、今は沈黙を守る。ナオの提案が、彼らにとっても合理的に聞こえたからだ。
ナオはタメルを石段に座らせ、周囲を小さな円に囲んだ。外からは日常の音が入ってくる。屋台の鍋が鳴り、子どもの笑い声が低くこだまする。だが、この円の中では時間が別のテンポで動いていた。ナオはまず事実確認を丁寧に行った。タメルの手にあった朱印の紙。地図の赤い点。そして、タメルが最後に会った人物の描写。彼は震える声で答えた。男は古い官吏の服を着ていた。灰色の外套、胸に銀の飾り。タメルはその男を「記憶調整局の下手人」と呼んだ。ナオはその名称を聞いた瞬間、腹に冷たい鉄の塊