絵描き 第10話「第9章」
「もっと遠くまで描かなきゃ。ここだけじゃ、助けられる人数が限られる」
「もっと遠くまで描かなきゃ。ここだけじゃ、助けられる人数が限られる」
ナオは路地の石畳を蹴るように歩きながら言った。彼の隣でリナが重い籠を肩に揺らし、トオルは長い刷毛を抱えてついてくる。ラナは一歩ごとに足取りを確かめるように、慎重に石に触れていた。彼女の指先は薄い傷跡で白くなっている。失われた何かを探るように、いつもより強く地面を確かめる仕草だ。
「ここから旧市街の中心に伸ばせたら、もっと多くの人をつなげるはずだってわかってるんだ」ナオは低い声で続けた。「でも一人の信仰じゃ途切れる。想像で補うわけにもいかない。歩いた痕跡だけが、絵に『道』を与えるんだ。歩く人を増やすしかない」
トオルがうなずいた。「歩ける人間を募るのは分かる。だが足跡だけで道を繋ぐなら、どの順で誰を動かすかが肝心だ。効率的に動かなければ、時間がかかりすぎて監視に見つかる」
リナが前を指差す。青い扉が路地の突き当たりに、塗り直しの跡もないままぽつんと立っていた。扉は古い木製で、ところどころ塗料が剥がれ、下地の黒ずみが見える。先日から彼らが拠点としてきた一角であり、ナオはその扉を何度も見てきた。扉は不自然に青い層で覆われていて、そこだけ時間が止まっているように見えた。
「ここをちゃんと調べたい」とラナが言った。言葉に遠慮が混じる。ラナの記憶には、扉の向こうに何があったかが断片的に残るだけだ。彼女の目はいつも、誰かが忘れ去った風景を渇望するように輝く。
「ただの古い戸じゃない。塗りつぶされた青い扉だ。ここに何か残ってるはずだろう」トオルは刷毛をぶらぶらさせる。「記録が消される前の看板や標識が残っていることだってある。もし、旧市街の路名や避難指示が書かれていたら——」
「それがあれば、僕たちの〈共同図像〉を組む一つになる」ナオは自分の手に握られた磁器の小箱をぎゅっと押ししめる。小箱の中には、彼が人々に信じてもらうために用意した、色と形の小さなモチーフが入っている。路のつなぎ目に共通の象徴を置けば、信仰を共有しやすくなる。だがそのためには、まず現実の路名とランドマークが必要だ。路名がなければ、人々の信頼を一つの像に収められない。
ラナがゆっくりと扉に近づき、爪の先で塗りの境をなぞった。塗料は思いのほか柔らかく、爪先に黒い粉がついた。
「引っ掻いただけでこんなになるなんて。保存はいい加減だ」彼女の声に苛立ちが混ざる。「誰か、消しやすいようにしたんだわ」
ナオは手袋を取り、トオルに差し出した。「手伝って。外側だけでいい。扉の下に何があるか確認したい」
トオルは躊躇なく受け取り、小さなスクレーパーを取り出す。近くでリナが見張りの位置を取る。路地は昼間でも人通りが少ないが、監視の目はどこにあるか分からない。ここで時間をかけるわけにはいかない。
スクレーパーが金属音を立てる。塗膜が剥がれ、青い層の下から暗い木の繊維が現れた。トオルが唇を噛む。「古い看板分解の跡だ。誰か、ここの表面を塗り潰して後ろを隠したな」
小さなひびからガリガリと掻き出すと、木の下地に薄く金属の縁取りと文字の痕跡が現れた。文字は腐蝕で読みにくいが、そこに残った白い塗料の痕跡が、かつての標識の輪郭を示している。
ナオの心臓が速くなる。彼は手を止め、力を抜いて深呼吸した。能力は確かだ。だが同時に、能力の代償を思い出す。想像だけで描こうとして記憶を失った者の顔が、ラナの横顔と重なる。彼らはその代償を払ったばかりだ。ここで何かを見つければ、それは共同の物語になり得る。見つけなければ、彼らの描き出す道は脆弱な想像に頼るしかなくなる。
「文字を全部出せるわけじゃないけど」トオルがつぶやく。「でも、一部分で手掛かりになる。ここの左端に見えるのは——『避難』の『避』の上かな。あと……地名の断片。『—町』の『町』かもしれない」
ラナが震える指で触れ、苔のように浮き出た線に沿って指先でなぞる。乾いた塗料の下から、確かに文字が現れる。『旧港通り』。だがこれは誤読かもしれない。ナオは視界が狭くなったときでも一字一句を確かめることを学んでいる。彼は息を吐き、声を低くして言った。
「ここに旧市街の路名と避難指示が残っているなら……新都が広報している evacuation(避難)案内とは、向きが違う可能性が高い。彼らは海へ向かえと言った。ここは——」
トオルの表情が一瞬凍りついた。「海へ向かうって……それが重ねられた嘘なら」
リナが手を組む。「もしここが、海に沈む前の旧市街への道順なら——人々が信じれば、もっと広い回廊を作れる。問題は、どうやって路名を共通の図像にするかだ」
ナオは磁器の小箱を取り出した。中の小さな絵札をテーブルのように路地の石に並べる。丸い青、波の形、赤い屋根の三角。彼らはこれらを結びつけて、道のイメージを作るつもりだった。だが単なる象徴だけでは不十分だ。人々が信じるためには、具体的な語りと、触れる記憶の断片が必要だ。
「ここに書かれている地名は、ただの言葉じゃない。誰かの家の門札、誰かの子どもの遊び場の名前、誰かの商売があった場所だ。僕らはその物語を集めて、絵に重ねる必要がある」ナオは言った。「それを見たとき、皆が同じ絵を信じられるように」
ラナの目は濡れていた。「でも、私たちがその物語を作るとき、記憶を奪われるリスクもある。想像で無理に埋めれば、誰かの記憶が——」
「消える」トオルが言い切った。「それが起きたのは、この通りの近くだった。あの橋の下で、想像で補おうとして人物の幼い記憶を失った奴がいる。だから慎重にやれ。歩いて、訊いて、記録して、分配して——」彼は自分の胸元の小さな手帳を叩いた。「そして何より、強制しないことだ。道を信じるかどうかは、そこに立つ人自身の選択でなくてはならない」
ナオはうなずき、決意を固めるように手の中の小箱を閉じた。「まずはこの標識の名前を軸にする。『旧港通り』、それに繋がる『石畳町』『屋根の市場』……ラナ、君はその市場について何か覚えているか?」
ラナは眼を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。記憶の断片が水面に揺れるように浮かび上がる。市場の匂い、古い鍛冶屋の金属の匂い、塩の風。彼女の口元がわずかに震えた。「金物屋の角に、小さな手摺があった。誰かがそこに彫った小さい子どもの手形が……うっすらと。確か、子どもが迷子になった時に目印にしたんだって」
その言葉にナオは目を輝かせた。手形。それは小さな象徴に過ぎないが、共同で信じるための具体性を持っている。彼は磁器の小箱から、波の模様の絵札と一緒に小さな手形の図案を取り出した。「これだ。ここに手形を置けば、誰かが子供の頃の話をするきっかけになる。大丈夫、強制はしない。彼らが語りたいと思った時に語る。語りが増えれば、絵を信じる人も増える」
リナが通りの外を注意深く見回す。「だが、これをある程度公にするには危険が伴う。ミレイア側の役人が『過去回帰主義の扇動』として取り締まれば、私たち自身が標的になる」
「それでも公にする」ナオは言った。「隠して誰かが忘れてしまうより、公開してみんなで分散させれば、個人の代償を小さくできる。ここにある『旧港通り』の標識を、路地ごとに