枯天樹の庭師は、魔王城から世界を芽吹かせる 第9話「第八章」
朝の霧が城門の石垣にまとわりついていた。白い帯が重なり合い、城の輪郭は近くでしか判別できない。遠くからは、規則正しい足音と号笛が連なってくる。人間王国の軍が根城の周囲に展開したのだという報せは、昨夜のうちに伝わっていたが、実際にその気配を嗅ぐと胸の奥がざわつく。
朝の霧が城門の石垣にまとわりついていた。白い帯が重なり合い、城の輪郭は近くでしか判別できない。遠くからは、規則正しい足音と号笛が連なってくる。人間王国の軍が根城の周囲に展開したのだという報せは、昨夜のうちに伝わっていたが、実際にその気配を嗅ぐと胸の奥がざわつく。
「これ以上、観賞用という名目で隠しておけない」中庭の見張り塔に差し出された報告書を受け取り、ネネアは静かに口を結んだ。ページの隅には、軍務本部の命令印が押されている。庭園を兵站に供出せよ──断われば城は直ちに攻撃を受けるだろうという脅しの色が濃い。
「城を守るために庭を戦争に使え、と言うのね」ネネアの声は冷たくも確かだった。王女としての血と、母から預かった庭の匂いが彼女を別のものにする。彼女の指先に残る庭の土の感触は、主張の根拠だった。「私が手を貸すのは、庭を育てるためだけ。死者を増やす道具にはさせない」
「だが、もし拒めば城は落ちる。職務として、あなたがそれを知っているはずだ」側に立つ将校が喰い下がる。軍の論理は単純だった。世界樹の残滓を確保すれば、王都は復興の手がかりを得る。魔王城を潰してしまえば、そこに生える芽は王のものになる――そういう算段だ。
ネネアは書類を床に置き、短く息を吐いた。「庭は所有物ではない。生きる場所だ。誰かを武器に変えるために水を与えるわけにはいかない」
将校は口を歪めたが、引き下がった。ネネアの表情は、冷たさだけではなかった。彼女は自分の選択が城を危うくすることを理解している。だが、理解と受け入れは別だ。王冠の形をした記憶が、彼女の胸に鋭く突き刺さる。
リュートはそのやりとりを、少し離れた陰で見つめていた。彼の掌の内側には、常に黒い種の感触が沈んでいる。前世の香りと、この城の土の匂いが混ざり合い、彼の根脈剪定を醒めた現実に引き戻す。外から押し寄せる敵の足音は、根に残る恐怖の色を青白く光らせる。触れた土地が発する声は、まるで誰かが息を呑むように彼の耳の奥で震えた。
「今は判断を急ぐべきではない」カイが淡々と言った。地図を膝に広げ、指先で線を撫でる。彼は城下の地形を熟知する元地図師だが、机上の線だけでは語れないものがあると、最近はよく口にするようになった。「安全な退路を確保しつつ、水源に向かう。二つのルートを作るしかない。どちらか一方を取れば、もう一方を失う」
「私が追手を足止めする」グレンがすっと間を埋めた。肩にかけた盾には古い傷痕が残る。彼の表情はいつもだと攻撃の意志を示すが、その目は今日は違った。盾をぶつけて敵を倒すより、敵を倒さずに排除する。戦士としての矜持が、行為の選び方を変えていた。「撃てば確かに時間は稼げる。それでも、民を巻き込むわけにはいかない」
モルは小さく首を振った。苔人族の唇はいつもより薄く開いている。彼女の歌はここでは使えない。歌うたびに自分の寿命の輪が一つ、白く欠けてしまうからだ。「ここで私が歌っても、寿命を代償にするだけ。必要なときに声を澄ませるため、今日は静かにしている」
リュートは歩み寄り、庭の方角を見た。そこには水庭がある。石で囲まれた浅い溜め池と、かつては涌き出す泉が作り出した緑の環。今は渇いてひび割れた底がむき出しになり、部分的に泥が硬化している。根は乾き、鳴き声のような細い唸りが地中から響いていた。
「庭を軍に渡せば、水も人も兵站に統合される。だがそれは、庭の意志を奪うことになる」リュートの言葉は小さいが重かった。彼は自分の能力の制約をよく知っている。地面に触れ、歩き、測った範囲だけを扱えるその術式は、奪うことより共有することの方が向いている。だが共有には覚悟が要る。切り落とした根の記憶は自分の中へ流れ込み、喜びも痛みも自分のものになる。広域で無理をすれば、前世の記憶が一つずつ薄れていく。彼はまだ失いたくないものがあった。
「私に任せて」ネネアが拳を握る。決意は顔の輪郭を固くした。「私は王女としての肩書きを捨てる覚悟がある。だが、それと引き換えに誰かの命や意思を奪うつもりはない。水庭は守る。だが軍がそれを奪いに来るなら、私はまず人を守るための策を優先する」
カイは唇を薄く結んだ。彼の手元の地図には、城外へ伸びる細い水脈が幾重にも描かれていた。多くは干上がっているが、一本だけ地下を走る生きた線が存在する。そこへ向かう道は、王都の監視網の隙間を突く必要がある。安全な退路を取れば、次の作戦は限られる。危険な水脈へ向かえば、彼らは一歩先の希望を掴むかもしれない。
「私たちは、水を取り戻すために動く。だけど、そのために人を踏みつけるわけにはいかない」カイは地図を閉じた。「水脈のある方角に、人の気配を消した路を一つ作る。それを私は選ぶ」
霧がさらに濃くなる。遠方で大きな太鼓が一度、二度と鳴らされた。合図だ。敵は攻めあぐねることなく、押し寄せている。
外の通路で小競り合いが起きた。人間の前衛が城門を試すように近づいた際、グレンはその前に立ち塞がった。彼は盾で兵士の槍を受け止め、殺意を帯びた一撃を受け流すと、投げられた槍を脚の付け根で挫き、盾で相手を殴って意識を失わせた。相手は倒れながらも息はある。グレンは剣を抜かず、鎧の継ぎ目を一つ押して音を鳴らし、撤退の合図を出す。彼の行為は、戦闘を望まない意思表示だった。敵は学級的に押し戻され、局地的な混乱に留まる。
その間にも、城の地下で何かが割れた。遠くで鈍い轟音がして、地中から水の響きが消える。リュートの足元の根は一斉に青白く光り、凍りつくように細い震えを送った。彼は掌を地面に押し当てると、ひとつの断片的な光景が流れ込んできた──地下水を堰き止める古い扉が外側から叩き壊され、鋼の棒が折れ、コンクリートの継ぎ目から水が一気に抜けていく。最後の水が逃げる音が、地中で喉を鳴らすようだった。
「誰が――」ネネアが振り返る。空気が急に冷たく刺さる。魔力の流れが狂い、根の一本が赤く脈打っている。そこに、王都の紋章を帯びた黒い旗が一つ、霧の中から突き出した。ヴァルドは自らの手で、地下水路の堰を破壊したのだ。目的は明快だ。庭を兵站に渡さぬようにするのではなく、庭が自立できないように水源を奪ってしまえば、人々は壊滅的な被害に追い込まれ、城は力尽きて屈するだろうという恐ろしい計算。
「救済には所有者が要る」遠くから、冷たい声が届いた。その言葉は、リュートの胸の奥で鈍い鉄音となる。ヴァルドの意図は単なる戦術ではない。彼はこの地の循環を固定化し、自らの手に魔力を集中させようとしている。そのやり方は、古の「完全な庭師」の思想に通じる。異質を排し、秩序を刻印するためには、手放させ、忘却させることが有効だと信じている。
水は地下へと流れていった。水庭の底に残る水たまりは一枚、また一枚と消え、石の縁に水面の光が残ったまま、やがて灰色の底だけが見えた。小さな水生の根が泡を吐いて息を止める。リュートは根に手を伸ばすことを一瞬で諦めた。今、剪定するには歩測した範囲を超えてしまう。もし無理をして広域の根を扱えば、彼は前世の記憶を一つずつ失うだろう。目の前の水の喪失は、術式の制約が許さないほど広範だった。
「時間がない」ネネアの声は震え