香水魔法 第9話「第8章」
朝の光が細い路地の石畳を裂くと、フィオは店の戸口に積んだ箱の上で肩をすくめたまま、いつもの皿をかき混ぜるように指先で小さな臙脂色の瓶を回していた。やりたいことは明確だ。香料局の工房の在り処を突き止め、そこで何が行われているのかを確かめる。もし妹がそこに保護されているなら、連れ戻す方法を探さねばならない。
朝の光が細い路地の石畳を裂くと、フィオは店の戸口に積んだ箱の上で肩をすくめたまま、いつもの皿をかき混ぜるように指先で小さな臙脂色の瓶を回していた。やりたいことは明確だ。香料局の工房の在り処を突き止め、そこで何が行われているのかを確かめる。もし妹がそこに保護されているなら、連れ戻す方法を探さねばならない。
しかし目の前にはささやかな妨げが幾つもある。ひとつは、記憶の抜け落ち──自分の匂いを混ぜた代償として失った断片が、妹の顔や名前の輪郭を時折ぼやかしてしまうこと。もうひとつは店や周囲が香料局の目に入っていること。さらに、情報は人の口から出るまでが一番脆い。彼らが持つ「平穏」を称える言葉は、時に真実を覆う薄いヴェールになる。
「だから言っただろう、今日こそは黙っておけって」
隣の椅子に座るブランが、かすれた木のカップを空にして顔をしかめた。花市場の老店主は歳を重ねた手のひらに、まだ樹脂臭が染みついている。ブランの手のひらには昔の仕事の痕跡と、身体に残る後悔が滲んでいた。ルクはテーブルの端で足を小刻みに揺らし、見張りのサナは眉を寄せて店の軒先に目を配る。エメルはいつも通り冷静に香辛草の小瓶を弄っている。四人の視線がフィオに集まる。
「黙っておけ、なんて言わないで。もう黙ってるわけにはいかないの。子どもたちが、夜に悪夢を見て消えていってる。灰香獣の噂が本当なら、放っておけない」
フィオは小瓶を抱え込み、声に微かな震えを含ませた。胸の内には守るべき顔が幾つも浮かぶ――難民街の細い子どもたち、背を丸める高齢者、そして妹の上着に残った雨と蜜の匂い。彼女はそれらを守るためにここにいる。守るべき対象を思えば、自分が悩む時間は少ない。
「ならば動くしかないな」ブランが低く言った。「だが、聞きたいのか。昔のことを、あの街の裏側を知りたいのか。俺が連れてくる相手は、全てを言うわけじゃない。お前らを巻き込んだ時、俺はもう若くはなかった。」
ブランの言葉の重さをフィオは受け止めた。彼はやがて、店の奥の棚から小さな包みを取り出した。古い布に包まれたその中には、茶色い紙に包まれた小さな木片と、焦げたような樹脂の欠片が入っていた。匂いは古傷のように、ほのかな煙と煮詰めた蜜の香りを立ち上らせる。
「この匂いを覚えてるか?」
ブランが包みを差し出した。フィオは手袋を外さずに木片を取る。手の中にある木材は乾いていて、しかしその表面に微かな粘りが残っていた。指先が触れた瞬間、フィオの嗅覚が反応した。抽出する前から、その残り香は意志のように語りかける。戦時の急ごしらえの膠、隠し通路、抵抗の打ち合わせ。誰かが囁いた希望の匂い。
ブランの顔が暗くなる。「この匂いは、かつて俺たちが使っていた。香料局が台頭する前、私掠のような香りを作って、難民の持つ恐怖を少しだけ和らげるために——それが始まりだった。だがな、その『和らげ』が、人を動かす感情まで奪ってしまうことを誰も想像しなかった。」
その語り口には、言葉にしがたい痛みが滲んでいる。ブランは知らず知らずのうちに、その樹脂を揉みしだき、掌の温度で溶かすようにしていた。フィオは一度息を飲み、立ち上がって手袋を外した。能力を使う時はいつも手が震える。花や樹脂、涙から残り香を抽出する――それが彼女の持つ術だ。抽出は慎重な作業で、持ち主の同意がない限り触れてはならない。感情を消すことはできない。さらに、自分の香りを混ぜれば大事な記憶が薄れる。
「ブラン、あなたの同意はある?」
フィオは直接訊いた。術の発動条件だ。同意なくして彼女の手は動かない。
ブランは黙って頷いた。曇った眼差しの奥にある、許しを乞うようなものが見える。彼の声は砂利を噛んだように低い。「話すから聞け。だが、その代わり、匂いを少しだけ貸してくれ。俺の胸の中の重みを、言葉にするのが怖いんだ。」
フィオは包みから樹脂を慎重に取り出し、小皿に載せた。火を使わずに指先の熱だけで薄く溶かす。樹脂の表面が光を拾い、蜜のような粘りが立ち上る。フィオは呼吸を整え、抽出器具に指先を滑らせた。細いガラス管に樹脂を垂らし、彼女はゆっくりと息を吹きかけるようにして揮発成分を導き出す。蒸気は透明で、ほんの一瞬だけ甘い苦味を含んだ香りを放った。
「これは、怒りを和らげるための残り香だ。あなたが求めるのは罪悪感の鎮静だね?」
ブランの肩がピクリと震えた。フィオは選ぶ感情を口に出し、その対象を明確にすることで術を始動させる。術は持ち主が選んだ感情を一時的に強めたり和らげたりする。ただし、その変化は完全ではない。消し去ることはできない。だからフィオは、ブランに向けて「罪悪感を和らげる」という言葉を繰り返し、同意を確認した。
ブランが瞼を閉じると、フィオは抽出した液体を一滴、彼の手の甲に触れさせた。匂いは淡く、苦さの中に安堵の種を含む。ブランは深く息を吸い、そして吐いた。薄くなったしわが、ほんの少しだけ緩んだ。言葉が出る。
「昔は、俺たちもただ、人を救いたかっただけだ。無力な者を見て、香りが心を鎮めるなら、役に立つと思った。だが……それが次第に制度化され、花が選ばれることになるなんてな。最初の頃は、抵抗の声を消すつもりなんて誰もなかった。だが、花を栽培する者たちは、ある感情を優先し、ある感情を抑えるように調整し始めた」
ブランの声は次第に細くなる。フィオは彼の中にある罪悪感を完全に消すわけにはいかないことを知っている。だが和らいだことで、ブランは語りやすくなった。彼の表情には重い記憶が戻り、そこに混ざるのは怒りと後悔と、微かな誇りだ。
「無臭花の最初期に関わった人物たちの中には、反抗心の強い者が多かった。彼らは『恐怖』を鎮めるという名目で花を試したが、実は『抵抗』そのものを希釈してしまった。抵抗が弱まると、人は従順になる。自治は壊れた。俺たちはそれを見て、やめさせようとした。しかし、一度動き出したものを戻すのは難しかった。」
ブランはしばらく黙り、手の中の小片を見つめた。外ではマーケットの喧噪が薄く聞こえる。ルクが息を詰め、遠慮がちに問いかける。
「その……無臭花って、どこで育てられてるんだ?工房って、どこにある?」
その質問に、ブランの顔が曇る。フィオの胸の奥が固く締めつけられる。答えはここにあったはずだ。ブランは紙を取り出し、包みの中からくしゃくしゃの地図の切れ端を差し出した。そこには旧港の倉庫街を示す記号と、いくつかの目印が乱暴に描かれている。
「ここだ。香料局は公式な工房とは別に、小さな実験棟をいくつか持っている。表向きは貯蔵庫といって、実際には分析室と栽培室がある。あの場所は元々革なめし場だった。湿気が多く、花を育てるには都合が良い。だが警備も厳しい。夜中の巡回に加えて、局の連中が非公開の研究に使っている。だが、そこで子どもを保護したという話はある。保護、という言葉でね」
ブランが言葉を切ると、フィオは息を飲んだ。保護──その言葉は希望であると同時に罠でもある。香料局が「保護」と称して子どもたちを集め、無臭化を施すという可能性は否めない。ブランの眼差しが重くなる。
「だが確実な証拠を得るには、人手がいる。潜