香水魔法 第10話「第9章」
夜の屋根を滑る風が、古い瓦の間を湿らせた。フィオは小さく息を吐き、親指で妹の上着の裾を押さえた。雨と蜜の匂いは、まだそこにある。目を閉じると幼い日の笑い声がちらつき、胸の奥がひりつく。今したいことは一つ――この匂いと一致する手がかりを見つけること。妨げは幾重にもある。香料局の巡回、工房の鉄扉、白い花の噂。それに、自分が持つ力の縛り。自分の香りを混ぜれば、その代償として思い出が薄れる。だから、今日は使わない。どんなに急いでも、そこだけは守る。
夜の屋根を滑る風が、古い瓦の間を湿らせた。フィオは小さく息を吐き、親指で妹の上着の裾を押さえた。雨と蜜の匂いは、まだそこにある。目を閉じると幼い日の笑い声がちらつき、胸の奥がひりつく。今したいことは一つ――この匂いと一致する手がかりを見つけること。妨げは幾重にもある。香料局の巡回、工房の鉄扉、白い花の噂。それに、自分が持つ力の縛り。自分の香りを混ぜれば、その代償として思い出が薄れる。だから、今日は使わない。どんなに急いでも、そこだけは守る。
「探る方向はここでいい。工房の裏手の排気ダクトから入れるって、ブランの旧友が言ってた」ルクは地図の折れ目を指で押さえ、声を潜める。顔は子どものままだけれど、瞳は火照っていた。彼が守りたいものは妹の安否だ。フィオはその熱を無駄にしない。
「サナ、見張りは頼める?」フィオが振り返ると、サナは鎧の肩当てを軽く叩きながら小さく笑った。衛兵としての習慣で、彼女はいつも人の匂いを気にしない。匂いの届かない世界で育った目は、逆に細やかな違いを捉える。
「匂いは役に立たないが、耳は働く。足音と鍵の金属音は任せて」サナの声は低い。彼女の鼻が働かないことを、フィオは恵みと感じた。匂いに頼れない状況でこそ、匂いを扱う者が冷静でいられる。何より今は、フィオ自身の香りを撒かないことが最優先だ。記憶を代償にする訳にはいかない。
「中で誰かに会ったら、声を出さないで。話しかけても、同意がなければ何もできない。私の香りは、使い続ければ逆効果になる」フィオは呟くように言った。言葉は自分に向けられてもいた。ここで薬効を見せつけて人を黙らせれば簡単かもしれない。でもそれでは、彼らの意思を踏みにじることになる。彼女は人を救うために、力を主導する者ではなく、共に選び取る者でありたいといつも思っていた。
暗がりを抜け、三人は屋根の谷へと降りた。工房の裏手には古い排気溝があり、鉄格子に隙間があった。ルクが格子をこじ開け、サナが周囲を見張る。フィオは上着の袖で再び匂いを確かめた。雨と蜜。小さな確信が心に灯る。妹のことを思うたび、その比喩のような匂いが手がかりとなる。無臭花の噂といい、これはまだ解けない糸だ。
排気溝の内部は冷たく、機械油と鉄の混じった匂いで満ちていた。フィオは呼吸を抑え、匂いを探る癖を自制する。感覚を研ぎ澄ませるのではなく、逆に鈍らせながら前に進む。工房の裏口にたどり着くと、そこは人影がちらつく小さな中庭になっていた。薄いランプがいくつか灯り、白い布がかぶせられた箱が並んでいる。布の下で何かが震えるような音がした。
「見たか?」サナの囁き。足音は聞こえない。代わりに、鉄の鍵が回る音が遠くで二度鳴った。夜勤の交代か、厳重な見張り体制の始まりか。時間は限られている。
しん、とした静けさの中、フィオは屋敷の窓から覗くように室内をうかがった。中の作業台には白い花の群れ。花弁は雪のように薄く、だが匂いはない。匂いのない花は、フィオにとっては不自然そのものだ。植物の細胞は常に何かを放つ。雨の匂い、葉の苦味、蜜の残り香。ここに並べられた花は、現実の気配を奪われた道具だった。
テーブルの端、金属トレイの上には小さなガラス片と液体入りのアンプル。ラベルには見慣れない符号がインクで押されている。誰かが近づく足音がして、薄く扉が開いた。作業着の腰に縫い付けられたタグが、薄い金文字で「局員」と読める。白衣の腕が一度ひるんだ。そこに詰められた空気は、病院の待合室のように張り詰めていた。
ルクが小さく震えた。フィオは掌を押し当て、彼の肩を掴む。先に声を出すのは慎むべきだ。ここでなにかを取るなら、音も残さず、匂いも残さず動かなければならない。サナは冷静に巡回路を確認している。彼女の腕には鍵の束が二つぶら下がっていた。衛兵の習性で、こういう状況に備えたものだ。
「行くよ」フィオは息を吸い込み、脳裏にある手順を一つずつなぞった。まずは写真や文書を持ち出すのはリスクが大きい。だが、確実な証拠が必要だ。見つけたら、できるだけ少ない手間で決定的な痕跡を持ち帰らねばならない。彼女は布の下に手を伸ばした。冷たい触感が指先を刺す。薄い繊維が伝う。そこに微かな雨の匂いがあるような気がした。
その瞬間、扉の方から小さなすすり泣きが聞えた。誰かが、誰にも気づかれないように泣いている。フィオは咄嗟に手を引っ込めた。涙、だ。能力は花と樹脂と涙から匂いを抽出できる。だが――その涙の持ち主の同意なしに、フィオがそれを抜き取って誰かの感情を操作することは、彼女の信念に反する。ここで彼女が香りを振るえば、泣いている人の恐怖を強めるか和らげるかを選べる。しかし、決して「感情を消す」ことはできない。さらに、自分の香りを混ぜれば記憶が薄れる。手は震えた。
「誰だ、あんたたち」低い声が室内の影からした。白衣の一人が足を速める。フィオは視線をそらさず、思い切って動いた。泣いているのは若い女、手にぎゅっと紙切れを握っている。彼女の目には、逃げ場のない恐怖が澄んでいた。
フィオは言葉で紐を解くしかない。匂いは使えない。彼女は一歩前に出て、笑顔を作った。笑顔は必ずしも真実ではないが、言葉の扉は開く。
「ここで何をしているの?」問いかけは柔らかく、でも確かな輪郭を持っている。女はびくりと体を震わせ、顔を上げた。目が合ったとき、フィオの心臓が跳ねる。見覚えはないが、顔に刻まれた疲労と恐怖の線はどこか見覚え深い。
「作業の…手伝い、です。新しい花の処理をしていたんです」女の声は掠れている。彼女は紙切れを机に押しつけた。紙には簡単な報告と、番号列。フィオの目は無意識に番号を追った。局員の手書きの報告書には、白い花の処方と、処理過程での感情強弱の実験データらしき短い注釈がある。だがそれは暗号めいていて、即座に国家的意図を示すものではない。
「名前は?」フィオが尋ねると、女は唇を噛んだ。サナが陰から体を乗り出す。目だけは鋭く、唇は動かない。彼女は耳で環境の変化を拾っている。足音は二重に入ってきている。交代の時間だ。
女は小さく首を振り、ただ机の下に落ちていた布切れを、そっと握りしめた。それは汚れてはいるが、雨を吸った後のような匂いを残していた。フィオは反射的にそれを嗅ごうとするが、彼女の手は震え、口に出せずにいる。匂いを嗅ぐという行為は、彼女にとって過去の一部を呼び覚ます。だから使わないと決めたのだ。
「何か、探し物?」ルクが小声で言った。彼は妹の在り処に熱を帯びた視線を送る。女は指を震わせながら頷く。こうして口を割らせるのは危険だ。証言は信用されないことが多い。だが、何も持ち帰らないよりはましだ。
「ここにあるものをひとつだけ、持って帰らせて」フィオは静かに言った。彼女は何かを求めている女の目線を見据え、その痛みを共有した。無理に味方にするのではなく、同意を取るのだ。女は躊躇したが、やがて小さく頷いた。フィオはそっと女の手から布切れを受け取った。指先に残る湿り。雨と蜜。胸が締め付けられた。
だが、持ち帰ったのはそれだけではない。フィオの目がテーブルの隅に置かれた小さなアンプルに触れたとき、彼女は一瞬の計算をした。中身は乳白色で、