天気屋

天気屋 第9話「第8章」

アオは今、何よりもまず人々を動かしたかった。声を張り上げることでも、空に新たな図を描くことでもない。手を使って、足で歩いて、誰かの隣で泥を掴むことでしか生まれない「やった」という確かな手応えを、ここにいる一人ひとりに感じさせたかったのだ。

アオは今、何よりもまず人々を動かしたかった。声を張り上げることでも、空に新たな図を描くことでもない。手を使って、足で歩いて、誰かの隣で泥を掴むことでしか生まれない「やった」という確かな手応えを、ここにいる一人ひとりに感じさせたかったのだ。

朝の光は低く、山肌の雪はまだ堅い。三つの谷のうちの一つ、東谷の集落の外れで、藁葺き屋根の前に人々が固まっていた。ミツは両腕に細い鉄の棒を抱え、棒先に小さな導体を取り付けている。ダンはいつもの無愛想な顔で地図を広げ、鼻歌の代わりに唾を吐く。エナは、師匠の予報帳を胸元で押さえつつ、住民の誰かと穏やかに言葉を交わしている。アオはその輪の中央で、両手を擦り合わせた。

「今日は訓練をやります。実際に動く。観測もやる。予報だけじゃなにも変わらないんだって、俺は知ってる。でも、時間を作ることはできる。時間があれば、穴を埋められるんだ」

老いた羊飼いのイブキが腕を組み、唇を噛みながらしわだらけの顔をこちらに向けた。日焼けと冷気で赤くなった頬が、アオには少し淡く見えた。最近、表情の色がわかりにくくなっているのを自覚することが増えた。眠らずに何度か空へ図を描き直した代償が、じわりと効いている。

「予報で時間が作れる? 前にも聞いたぞ。『大丈夫だ』って云って、何度無駄足踏んだか。家畜が餓え、寒さにやられ、金は消えた。お前たちの師匠も、あの帳面も——信じる方が馬鹿を見るんだよ、坊主」イブキの声には、笑いより先に疲れが混じっていた。

「俺は誤魔化したくない」アオは静かに言った。「誤報を隠すつもりも、責任を逃れるつもりもない。俺の描く明日の図は、ここだけの天気を“固定”する力がある。ただし、それは災害を消すわけじゃない。雪崩を止めるわけじゃない。ただ、風向きや気温の変化の時間を少し伸ばすことができる」

言葉尻で誰かが鼻で笑った。女の一群が腕を組み、手綱を握る手を見つめる。アオは次に言うことを、自分の胸の奥で確かめるように選んだ。

「だから、今日は“見せる”んだ。言葉じゃなくて、動きで。避難路を確認して、動線を作って、家畜の避難方法を試す。失敗してもいい。失敗の方が、次に直せるから。俺は図を描いて、移動のための窓をつくる。あとはみんなでやる。僕ひとりじゃ動かせない。お願いだ、ほんの一時間だけ、協力してくれ」

ミツが小さく舌打ちした。導体を地面に刺し、空へ向けて指先を翳すと、稲妻のような小さな青白い火花が指先で踊った。彼女の目が、子供のように輝く。ダンは唇を引き結んだまま、小さな木札を取り出して地面に刺した。刻まれた矢印が、集落から高台までの避難路を指している。

イブキは腕の力を緩めない。彼の背後で妻のミヨが、幼い娘のミコの髪を掬うように撫でた。覚えのある恐怖が、そこにある。過去の誤報で失ったものの記憶は、言葉にならない抵抗となって立ち上がる。それでも、ミコの目に少しの好奇心が残っているのを見て、アオはゆっくりとうなずいた。

アオは空を見上げ、手を上げた。天をなぞるように指先を走らせると、薄い光が空へと吐き出され、白く淡い紙に墨を引くように線が浮かんだ。空の片隅に、明日の天気図が一枚だけ現れる。山なみ、風向きの矢、降雪の予想帯。描いた地域はこの集落とその周辺だけに限定された。

「これが明日の図だ」アオの声は、いつもより静かだが確信がある。「この範囲の風は明朝まで安定する。気温差も今より小さい。つまり、夜に大きな暴風が来る可能性は低くて、今のうちに移動すれば足場もいい。だが——これは移動のための時間を作るだけだ。雪崩の“発生”を消すことはできない。そこは忘れないでくれ」

天の地図が浮かぶのを見て、村人たちは一斉に顔を上げた。誰かが小さく「おお」とつぶやく。エナは胸の予報帳に触れ、薄く息を漏らした。ダンは地図の北を指さし、斜面の危険箇所を唇の横で数え上げる。

イブキの表情がわずかに動いた。アオにはその変化の色が判別しにくかったが、言葉ではなかった。彼の声の震えが、少しだけ柔らいだのを聞いた。

「——一時間だけ、だな」イブキが言った。短く、切り詰めた同意。村の周囲から、小さなうなずきが広がる。

アオはほっと息をついた。だが、ここからが本番だった。言葉を得たところで、人は動かない。足を出させるためには、具体的な仕事と分担が必要だ。アオは短く、役割を示した。

「ミツ、あんたは高台の案内で。夜間に使える導灯の設置を頼む。ダン、危険箇所の標識と雪庇の確認。エナ、家畜のリストアップと優先順位を作ってくれ。イブキさん、あなたは自分の家族と隣組をまとめて。俺は先頭でルートを踏んで、足場を見せる。まずは南の斜面を一列で登る。動物は二人一組で運ぶ。了解?」

ミツはぴんと背筋を伸ばし、鉄棒を肩に担いだ。「雷で光るくらいの灯なら任せて。今夜は風が味方だから」

ダンは顎をしゃくり、小さな溜息をしてから地図に赤い線を引いた。「俺の命令は聞かんでもいい。だが道は守れ。雪の歪な所はここだ。二人、三人で固めて通す。それとロープを二本、使う。俺が先に行く」

エナは小声でイブキの妻に寄り、ミコに優しく話しかけると、ミコの肩にそっと手を置いた。エナの言葉は穏やかだが芯があった。「今日は試すだけ。もし動いてみて怖いことがあったら、すぐに戻していい。私たちも一緒に行くから」

人々は動き始めた。藁や木箱を担ぎ、簡易の柵を築く。子供たちはロープの端を持って走り、老人は見守りながら柵にしがみつく。アオは先頭に立ち、靴底が雪を捉える感触を確かめながら歩いた。足跡は一筋の道になり、やがて人々が続いた。

行動は、小さな成功を生む。斜面の緩い溝を見つけ、そこへ誘導すると数頭の羊がついてきた。ミツが設置した小さな導灯は思いのほか明るく、風で消えることはなかった。ダンの指示で、危険な雪庇を二人組が手作業で崩し、転がる雪を受け止める溝を作る。冷えた手で縄を結ぶ音が、雪の静寂に混ざった。

だが、完璧ではない瞬間もあった。狭い通路を通すとき、ミコのひとりが怖がって動けなくなった。イブキの顔が硬くなる。アオは顔色がわかりにくくても、声の震えと手の動きから彼女の恐怖を読み取り、近づいた。

「ミコ、ここはゆっくりでいい。お父さんの手を握って」アオは膝を折って同じ目線に立ち、娘の手を取った。ミコの手は小さく、震えていた。アオは彼女の手の温度を確かめ、笑顔で厳しさを含ませた言葉を投げる。「羊は先に行かない。君の方が大事だ。ゆっくりでいい」

しかし、その直後、アオは自分の読み違いに気づいた。イブキの肩がわずかに痙攣し、口元が硬直した。アオはそれを「許容」のサインと見誤り、急かすような口調になってしまったのだ。イブキの顔に薄く見えた紅潮の色がわからず、アオはそのまま前へと促した。

「——何してるんだ、お前は」イブキの声は葛藤と怒りで震えた。「我が子を急かすやつを、俺は許さない。お前は人の顔色が見えないのか? それとも……」

アオは咄嗟に言葉を失った。色が見えにくい代償が、こうして誰かの感情の読み取りを奪う。目の前のイブキは怒っているのか、恐れているのか、それとも悲しんでいるのか。微妙な色の違いで伝わる曖昧さを、アオは