天気屋

天気屋 第3話「第2章」

午前の光が山肌をなでる頃、アオは丘の縁に置かれた古い木箱の蓋を押し上げていた。箱の中には、使い込まれた手帳と、薄紙の間に挟まれた小さな風見鶏の金属片が収まっている。指先が触れると、紙の匂いと冷たい鉄の感触が同時に心に刺さる。今したいことはひとつだけだ。師匠の予報帳をもう一度、隅から隅まで探し、白嵐についての昔の記録を見つけること。そのページに“七日後”の痕跡があるなら、避難の説得に使えるはずだ。

午前の光が山肌をなでる頃、アオは丘の縁に置かれた古い木箱の蓋を押し上げていた。箱の中には、使い込まれた手帳と、薄紙の間に挟まれた小さな風見鶏の金属片が収まっている。指先が触れると、紙の匂いと冷たい鉄の感触が同時に心に刺さる。今したいことはひとつだけだ。師匠の予報帳をもう一度、隅から隅まで探し、白嵐についての昔の記録を見つけること。そのページに“七日後”の痕跡があるなら、避難の説得に使えるはずだ。

だが、妨げはすぐ横にいる。羊飼いのゴルと、その妻のマロは岩の影に腰を下ろし、羊の群れを黙って数えている。ゴルの目はあらかじめ決められた不信心のように固く、マロの指は藁の束を握りしめたまま離さない。二人の顔は話が始まる前から閉じていた。アオは手帳を半ば隠して、言葉を選んだ。

「ゴルさん、マロさん。町に知らせが来た。白嵐が七日後にここらを通るって」

ゴルの口がひとつの声を吐いた。短く、泡の弾けるような声だ。「噂だろう。風が吹けば噂は増える。だが、お前はどういう立場だ。空の言葉が本当に当たるとでも?」

アオは素直に答えた。嘘はつけない年頃だ。「師匠の予報帳に記録があるはずだ。過去にも似た吹雪が来て──」

マロが割って入った。手の藁を床に叩きつけるようにして、鋭く。「“師匠の予報”ってやつは、あんたの師匠は予報を外した。忘れてない。あの年、うちの羊が何匹か死んだ。避難したとき、家畜小屋の扉は開け放しになって──」

言葉が切れて、アオの胸にひりつくものが落ちた。覚えている。あの年の吹雪。村は本当に避難した。だが着いた避難所では炉が足りなかった。戻ったとき、凍えた毛皮の山が待っていた。師匠は謝った。予報は当たらなかった。アオはそのとき十歳に満たなかったが、忘れられない匂いがある。燃え残った家の匂いと、羊の毛の湿り。そして、師匠の手が震えていたこと。

「当たらなかったってことを、覚えてるんだね」とアオは小さく言った。ゴルの顔に一瞬、色が差した気がしたが、アオの目に入るのはそれが薄い灰色の影になっているだけだった。最近、自分の世界の色が少しずつ、――あるいはほんの少しずつではなく、変わってきていることをアオは気に留めないようにしていた。使った代償の痕だ。昨日の夜、試験のように一枚描いてみたとき、眠りを削った。描き換えのために眠れなかった夜が一つ増えるたびに、人の表情が色として分かりにくくなる。マロの頬の炎のような赤が、今は単なる光の陰に溶けている。

「外れることもある」ゴルが言った。「外れたら誰が責任を取るんだ。羊の死をどう埋め合わせる?」

アオは掌を胸に当て、息を整える代わりに事実を取り出した。「予報は事故を消せない。時間だけをくれるんだ。避難の時間。羊の死はその時間の使い方で減らせると思う。君たちの扉を閉める時間、干し草を運ぶ時間、そんな細かい時間が。だけど、僕一人の言葉じゃ無理だ。記録があれば、みんなに説明できる。師匠の手帳に、同じ季節に似た気配があったかを見せたい」

マロは肩をすくめた。「あんたの師匠はどこにいるの? その手帳はあんたの手元にあるの?」

アオは木箱の蓋を少し持ち上げて、内側に潜む予報帳の角を見せた。紙の端が繊維になって、風を呼ぶように薄く揺れた。ゴルの目がようやくそこに向いた。しばらく沈黙が横たわる。羊のベルが遠くで鳴り、風が足元の草を撫でた。

「師匠は──」アオは口ごもった。師匠の失踪を、大声で言うのは現実の重さが違う。町には噂がある。山道で行方をくらませたとか、王都に召されて行ったとか。だが確かなのは、予報帳があって、白紙のページがあること。七日目だけが白かった。あれは何だろう、とアオはいつも考えていた。意味のない白であるはずがない。だが今はただ、見つけることが先決だった。

ゴルが短く笑った。笑いは冷たかった。「白紙? 白紙なら信用しないね。白紙なんて、何も言ってないのと同じだ。あの年、俺たちは風の色を見て、羊の群れを分けた。紙一枚で命は守れない。言葉だけで人は動かない。覚えておけよ、坊主」

言葉がつんのめった。アオの手が本の表紙をぎゅっと押さえた。心臓が小さく跳ねた。彼は知っている。ゴルの言うことは真実だ。紙に書かれた真実が、そのまま人の行動に直結するわけではない。予報は時間を作る。時間は役に立たせねば意味がない。だが、時間を作るためにはまず人に信じてもらわねばならない。信頼を失うというフリが、アオの前に立ちはだかる。

「わかった」アオは低く言った。「まず、予報帳を調べる。過去の白嵐の記録があるか。なければ、師匠の残した観測の仕方を探す。記録の出どころを突き止めたい。それで、君たちにちゃんと説明できるものを持ってくる。避難だけじゃなくて、何をどうするかを示すために」

マロは目を細めた。風に彼女の髪が少し揺れて、冬の肌の下の血色がほんの少し見えた。アオの視界はその色を完全には拾えず、いつものように輪郭だけが残る。だが、それがかえって自分の言葉を研ぎ澄ます助けになった。色がぼやける分、言葉や行動はもっと純粋に向き合わねばならない。

「もし、嘘だったら?」ゴルが問いを投げる。問いは石のように重い。

「嘘だったら、君たちの判断は守れない。だけど、だからこそ一人の予報ではなく、記録と観測を集めるべきだと思う。師匠の手帳に穴があるなら、僕たちでその穴を埋める方法を探す。白嵐が来ないという証明はできないけど、来たときにどう動くかは示せる。羊のこと、家のこと、必ず具体的に示す」

ゴルは振り返り、羊の群れに目をやった。羊は草をはみながらも、風の匂いを気にしているのか、時折首を上げて空を見た。アオはその白い塊を見つめ、指先で小さく押し絵のように空に一枚の天気図を思い描いた。だが声にするのを止めた。能力は彼の秘密であり、同時に重い代償を伴うものだ。空に一枚、「明日の天気図」を描ける。だが、描いた地域の天候はその予報に固定される。書き換えには、自分の睡眠を差し出さねばならない。さらに、眠らずに書き換えるほど、私は人の表情を色として見分けにくくなる――その代償だけは、今は渡したくない。

「証拠を見せてくれ」マロが言った。「言葉じゃない、証拠。あんたの師匠はどこにいったの。手帳はどこから来た? あんたがそれを持ってる筋合いは何だ?」

アオは唇を噛んだ。師匠の家は小さな屋敷ではなかった。洞のような気象観測台だった。観測器具、小さな鉚釘、古いガラス玉。師匠はある日、観測塔へ登ってそれきり帰らなかった。残されたのは手帳と、色のない風見鶏だけだ。彼は手帳を師匠の机からこっそり持ち出した。隠すつもりはなかったが、持ち去った理由を見せるには、それが誰かの怒りを呼ぶことも分かっていた。

「探させてくれ。観測台に行けば、何か残っているかもしれない。師匠の記録の断章でもいい、観測ログでもいい。白嵐って呼ばれている風の痕跡を探す。見つけたら、君たちに見せる。納得してもらえるまで見せる」

ゴルはしばらく黙った。山の風が遠くで唸る。誰かが遠くの峰を越えているような音だ。村の人々は噂で動くことが多い。噂は木の葉のようにすぐに広がるが、実際に根付くのは行動だとアオは思った。だから自分を信じる