天気屋 第21話「第19章」
夜の峠道に火の匂いが残っていた。風は冷たく、稜線の向こうで都の灯がぼんやりと揺れている。アオは深く息を吸い、両手で肩に掛けた毛布をぎゅっと握りしめた。彼が今、すぐにしたいことは一つだった──師匠の予報帳の断片を王都から取り戻すこと。そこに書かれている文字が、白嵐の正体を暴く鍵になるかもしれない。だが、目の前には障害があった。守る対象は三谷の人々で、仲間はダンとエナ。直接的な武力行使は避けたい。力ずくで奪い返しても、王都が報復に出るだけだ。今必要なのは確実な情報と証拠だと、アオは何度も自分に言い聞かせていた。
夜の峠道に火の匂いが残っていた。風は冷たく、稜線の向こうで都の灯がぼんやりと揺れている。アオは深く息を吸い、両手で肩に掛けた毛布をぎゅっと握りしめた。彼が今、すぐにしたいことは一つだった──師匠の予報帳の断片を王都から取り戻すこと。そこに書かれている文字が、白嵐の正体を暴く鍵になるかもしれない。だが、目の前には障害があった。守る対象は三谷の人々で、仲間はダンとエナ。直接的な武力行使は避けたい。力ずくで奪い返しても、王都が報復に出るだけだ。今必要なのは確実な情報と証拠だと、アオは何度も自分に言い聞かせていた。
「ええと、端的に。役割は──」エナが紙に小さく地図を書き込む。紙の上で彼女の鉛筆が震えるのを、アオは視界の端で見た。彼女の声は低く、しかし決然としていた。「私が図書室に紛れて帳面の在処を確認して、断片があれば写し取る。ダンは警備の手際で扉を開ける。アオは外で待機して、異変があれば合図を出す。すべて短時間で。証拠が取れたら速やかに撤退すること。」
ダンは肩をすくめ、笑いながらも目は鋭い。「帳面に手を触れたら最後、監視される前に消えればいいだけさ。だが、城内の巡回が増えてる。最近の夜警は嫌なほど几帳面だ。余計な喧嘩は御免だぜ。」
アオは口を開こうとして、ふと自分の顔を触った。指先に触れる皮膚の冷たさが、いつもの自分とは違った。眠りを差し出して書き換えを重ねてきた代償が、ゆっくりと彼の世界を蝕んでいる。人の表情の色が判別しにくくなった──頬の赤み、怒りで紅潮した顔、恐怖の蒼さ。色の差が見分けづらい分、声の震えや呼吸の速さ、肩の張り方に頼るしかない。エナの鉛筆の震えを、彼は手先の細かい動きで読み取った。色を頼らない新しい読み方だ。
「使うなよ、夜の来ぬ力は」エナが小さく呟いた。「ここでお前の空に一枚は、俺たちの足を止める。あの力は人を動かすための時間を作るだけだって分かってるけど──」
アオは首を振った。夜空に描く「明日の天気図」は一枚だけ、描いた地域は固定される。書き換えれば災害を消せるわけではないし、書き換えるたびに自分の睡眠を差し出す必要がある。その夜、睡眠を差し出すわけにはいかなかった。白嵐は日に日に近づいている。彼が今眠りを削れば、次の窮地で顔の色を識別できず、住民との微妙な信頼交換に失敗するかもしれない。ここで使えば短期的に有利だが、長期的には破綻を招く。アオはそれを心得ていた。
「使わない」短く、しかし確信を持って言った。エナはうなずき、ダンは舌打ちをした。「正しい。帳面を取り戻すことが目的なら、余計な目立ち方はするな。情報と証拠を持って帰る。それができるなら、王都の言葉を揺さぶれる。」
三人は静かに峠を下り、都へと続く古い獣道を辿った。夜は深く、道行く者は少ない。ダンが小さな合図で音を立てると、アオは耳を澄ませて足音の位置を記憶する。色が薄く見える顔の替わりに、彼の世界には音と影が増えていった。
王都の外壁は想像以上に堅牢だった。門をくぐる商人の群れに紛れて、だが目立たぬように、三人は都に潜入する。ダンは兵装と違う服をつけて人目を引かないようにし、エナは城の学術部に仕えていた叔父からの口利きを利用して図書閲覧証を借りた。アオは周囲の空を見上げ、星の配置で時間をはかる。睡眠不足を恐れているからではない。彼はただ、空の小さな兆しを見落としたくなかった。
図書室は想像より寒かった。石造りの壁に囲まれ、燭台の炎が低く揺れる。紙と皮革の匂いが混ざり合い、長年の煙とインクの色が部屋に染みついていた。閲覧台の上には細い紐で結ばれた古い帳面が並び、学者の指が触れた跡が残る。エナは胸の鼓動を押さえつけ、声を震わせながら書架を探る。アオは入り口で待ち、ダンが周囲の巡回路を探る。三人の動きはけれん味がなく、無駄がなかった。
「ここだ」エナが低く叫んだ。棚の奥に、薄汚れた革表紙が見えた。あれが──師匠の予報帳の背表紙についた細い赤い紐を思い出し、エナは息を呑んだ。「見つけた。ここに、父の字が……」
エナが膝をつき、慎重に帳面を引き出した。アオはその瞬間、心臓が跳ねた。端に残る独特の切り貼り、古い気象記号の入った角の折り返し。触れた瞬間にふわりと懐かしい匂いが立ち上る。が、ページをめくると、そこに並んでいたのは紙の白さだった。文字が消されている。余白にはうっすらと消えかけた筆跡の痕跡が残るが、明瞭な予報は消されていた。白紙が、あちこちに増えている。
「おい……」ダンの声が暗く沈む。エナの指先が震え、乾いた息が漏れた。「どうして――」
エナはページを押さえ、しわだらけの目を閉じる。彼女は父の細い筆跡を探し、それが消えてしまった理由を探した。ページの端に、官印の跡が残っている。わずかに凹んだ印影、黒インクのにじみ。上から塗りつぶしたような痕跡と、別の紙の切れ端が差し込まれている。明らかに後から手を加えられていた。アオは指先でそのにじみをなぞることはできない。指先が紙の傷を拾うだけで、彼自身の胸が締めつけられた。
「改竄だ」ダンが低く呟く。「上から誰かが手を入れた。官印まである。正式な手続きだろうが、こんなことをする理由があるのか?」
エナは顔を上げ、目に涙をためていた。だが彼女の声は冷たかった。「誰かが、観測の記録そのものを消している。白紙にすることで、過去の観測が無かったことにされる。私の父が記していたことすら。これが、白嵐の“正当化”に繋がるのかもしれない。」
アオはわずかに前へ出た。白紙はただの紙ではない。序章で見た、風見鶏の“色がない”あの像と同じように、システムの停止と操作の証拠だった。だがここで何かを証明して公にするには、単独では力不足だ。彼が最初に考えた「奪還して示す」案は、いまや破綻している。帳面は改竄され、王都は監視を強めている。直接対決に出れば、三谷の住民を守る時間も機会も失う。
「写し取れるか?」アオが問うと、エナは頁の隅に残る薄い墨の斑点を拡大して見せた。「ええ。肉眼では読めないけれど、匂いと紙の折れ跡、裏写りからある程度は復元できる。だが、完全ではない。白い方が多すぎる。」
ダンは資料台の下で、そっと短冊状の紙切れを手に取った。それには小さな数字と短い脚注が残っている。隅の墨跡からは、観測塔の停止命令に使われた形式的な語句が透けて見えた。彼はそれをじっと見つめ、やがて息を吐いた。「これがあれば大臣に近い何者かの関与を示せる──でもそれだけじゃ民を動かすには弱い。言葉は権威を持つが、人は動かない。行動と証拠だ。」
その瞬間、廊下の向こうから足音が聞こえた。三人は同時に硬直する。アオは外の風を思い出し、夜明け前の薄い光を数えていた。時間がない。ダンは鍵を探しに立ち上がるふりをし、エナは帳面を布で包んで胸に抱きしめた。二人の動きは自然で、閲覧室の他の学者を装っている。だが廊下の足音は近づく。若い兵が巡回している。
「三つだけ取ってくるんだ」ダンが低声で言った。「帳面の原本は無理でも、断片を。印影のコピーと、裏写りの断片。外に出たら、合図。アオは三歩先に出て待て。俺たちは二度と戻らん。」
アオはうなずいた。彼はエナの腕を軽く掴んで合図を送る。エナ