天気屋

天気屋 第11話「第10章」

朝靄が谷を薄く包んでいた。アオは崖っぷちに立ち、手のひらを広げて空を見上げる。風が頬を撫で、筋雲がゆっくりと流れていく。今、やりたいことははっきりしていた――第三の谷で住民たちの前で避難訓練を行い、言葉ではなく行動で「予報は避難の時間をつくるだけだ」ということを示すことだ。説得に使えるのは、明日の短い晴れの時間と、仲間たちの足と手と声だけだった。

朝靄が谷を薄く包んでいた。アオは崖っぷちに立ち、手のひらを広げて空を見上げる。風が頬を撫で、筋雲がゆっくりと流れていく。今、やりたいことははっきりしていた――第三の谷で住民たちの前で避難訓練を行い、言葉ではなく行動で「予報は避難の時間をつくるだけだ」ということを示すことだ。説得に使えるのは、明日の短い晴れの時間と、仲間たちの足と手と声だけだった。

「晴れるか?」ダンが腕を組んで空を睨む。彼の顔にはいつもの反抗と、それでも──やはり心配の線が入っている。アオはその輪郭を見取ろうとするが、顔色の微妙な差がかつてより分かりにくくなっていることを思い出した。最近、昼の光の下で人の頬の色がぼやけるのだ。自分が使った予報の代償が、まだ身体に回っている。

「僕が空に一枚、明日の天気図を描く。朝だけ、揺れを抑えられる晴れを固定する。訓練をするにはその時間だけで足りるはずだ」アオは低く言った。言葉には自信を持たせようとしたが、胸の奥の疲れがひりつくように痛んだ。描くこと自体は、まだできる。上書きが必要になるときに睡眠を差し出すことになる。今は上書きは考えない──そう自分に言い聞かせる。

「また空に何か絵を描くのか、天気屋さん」小さな声でミツが笑う。彼女は帯をくるりと回し、金属の尖端についた小さな導子を弄っていた。導子には昨夜の残りの雷の残滓が、薄く青白く浮かんでいる。ミツはいつもあどけないが、雷を集める技術は確実で、今日は観測器の簡易な振動計を動かす約束をしている。

「地図は俺が見る」ダンは地図を開こうともしない。彼のやり方は道を歩き、山を触ることだ。危険個所に印を付けるのが彼の仕事であって、紙の上の線で人を動かす気はないようだった。しかし今日、彼は割と真面目にロープと木杭を並べ、避難路の実地確認をしていた。

谷の入口には、羊を連れた家族が控えている。父親は腕を組み、母親は子を抱きしめながら落ち着きなく足を踏んでいた。アオは彼らの目を見ようとしたが、色が判別しにくく、目の奥の疲れや怒りが読み取れない。唇の色や頰の紅潮までもが曖昧になり、言葉に頼るしかないと悟る。

「あなたが来たって、また裏切られるだけだ」父親の声は低く、谷の底から染み出すように響いた。言葉は鋭く、過去の誤報を忘れない重さがあった。数年前、ある予報は外れ、羊の群れを移動させた結果、逆に凍傷と損失を招いた。住民たちは「予報は嘘だ」と言った。それが、今も根深い。

アオはひと息ついてから、自分の天気図の線を空に描き始めた。空気を指先で切ると、見えない墨が織りなすように、淡い輪郭が浮かぶ。雲の流れに溶け込み、次第に人影にも見えるように形を成していく。描いた図は、明日の朝を「晴」として固定する。描き終わると、空の中にひとつだけ、ほのかな膜のようなものが張られるのがわかった。

「見えるか?」アオは振り返る。住民たちは最初は訝しげだったが、徐々に空を仰ぎ見、唾を飲むようにして図に気づき始めた。図は言葉より単純だ――雲の塊と風向き、雪の流れの予想線。誰もが空を読むことができる形で描いたつもりだった。

しかし、父親は首を振った。「空に線を引いただけで、雪が来ないわけじゃない。来たらどうするんだ。王都が言う通りに移るほうが賢いんじゃないか──」その言葉に、群衆の一部が頷く。王都派の圧力は静かに、確実に彼らの背を押している。

「移るって一体どこに?」ミツが口を挟む。驚くほど露骨に、彼女の声は子供っぽい好奇心と怒りを混ぜていた。「山から人を下ろすのは簡単じゃない。羊も、家も、私たちの場所もある。移るって、誰のため?」

その言葉で、空気が少し動いた。父親は目を細めた。アオはその表情の変化を読み取ろうとしたが、色の喪失のせいでどのくらい本気か判断できず、口ごもる。そこでエナが前に出た。師匠の娘としての実直さが彼女の顔を引き締める。彼女の声は、アオの不安を埋めるように落ち着いていた。

「言葉はいくらでも並べられる。だから今日はやってみせる。避難の手順を、全部。高い場所へのルート、荷物の運搬方法、小さな雪崩の誘導と防ぎ方。皆でやれば、安全に動ける時間がどれほど生まれるか、体で確かめてもらう」エナの言葉は明確だった。彼女は羊飼いの家族の方を向き、まっすぐに目を合わせた。アオはその誠実な眼差しに、ほんの少しだけ色の欠けた世界の中で色を見出したような気がした。

訓練は準備が命だった。ダンは危険箇所に杭を打ち、歩行者用の簡易避難梯子を掛けた。ミツは小さな雷蓄積器を地面に設置し、振動計を固定して、雪の小さな滑り出しを人工的に起こせるようにした。住民たちも次第に体を動かす。最初は抵抗を見せた男たちも、ロープの結び方を学び、老人は杖を手にして避難ルートを確認した。

「注意しろ。予報は時間を作るだけで、全てを消すわけじゃない」アオは繰り返した。自分の能力は奇跡を起こさない。天気図が与えるのは、ほんの短い猶予に過ぎない。その限界を示すために、彼は敢えて安全枠をぎりぎりに設定しない。余裕を持たせたルートと集合地点。もしも予報が外れても致命傷にならないように。

訓練が始まると、空気は緊張で震えた。若者は荷を背負い、子どもは親の手を離さずに歩く。ダンは先頭で雪の崖の縁を確かめ、端っこで杭を打ち直す。ミツは蓄積器のスイッチを押し、そこから小さな放電が起きて地面の氷層の一部を剥がした。氷が裂ける音がして、小石と雪の小さな塊が音を立てて転がる。予定通りの「小さな雪崩」だ。人々はその音に一瞬で反応し、決められた避難行動を取る。

しかし、全てが完璧に進んだわけではない。訓練の最中、老人の一人が足を滑らせ、尾骨のあたりを打った。雪の粉が舞い、彼の顔に血がにじむ。アオはとっさに駆け寄るが、血の赤がはっきり見えない。彼の視界は灰色に溶けてしまったかのようで、どのくらい深刻か判断できない。心臓が早鐘を打つ。

「ここは任せて!」エナが叫び、すぐに帯を外して太ももに巻き、止血を始めた。ミツも助けに入り、ミツの小さな手は震えていたが確実だった。ダンは冷静に老人を横にし、手際よく毛布をかける。住民の一人が声を張った。「訓練でも本当の怪我は起こる。だから訓練なんだ!」その叫びが、人々の動揺を押し戻した。

アオは自分の無力さを噛みしめた。予報は人を避難させる時間を与える。だが、予報は人の行動を代わりに取ってはくれない。目の前で起こった小さな怪我は、言葉でどれほど説明しても覆らない現実だった。自分の色の見えにくさが、判断の遅れを生んだ可能性もある。胸が詰まる。

訓練は部分的成功と評価された。集合は思ったより速やかにでき、避難路も機能した。だが、羊飼いの父は訓練の終盤でも腕を組んだままだった。「見せられれば納得するというものじゃない。俺の羊は家が好きなんだ。移るかどうかは、生活の全てを賭けた選択だ」彼の言葉は正しく、痛みを伴うほどに現実的だった。

その時、谷の入口の方から鉄の音がした。見張り役が立てた小さな台に、王都の印が押された文書袋が置かれているのが見えた。誰かがそれを見つけて持ってきたのだ。集まった人々の顔が一斉にそちらへ向く。文書袋に押された刻印は、気象管理署のものに似ていた。アオ