不死者の宿屋

不死者の宿屋 第9話「第8章」

朝の霧が宿の屋根にまとわりついていた。カイは縁側に置かれた小さな燭台の煤を指先で払う。やりたいのは灯明祭のための灯を一つでも増やすことだ。今すべきは灯りを整え、客が安心して鍵を預けられる環境を作ること——だが、それを妨げるものが目の前にある。宿の入口に立つ三人組のうちの一人は、昨夜の被害者の母親だった。彼女の目は赤く、顔は硬く歪んでいる。背後には噂と不安を抱えた近所の者たちがいる。

朝の霧が宿の屋根にまとわりついていた。カイは縁側に置かれた小さな燭台の煤を指先で払う。やりたいのは灯明祭のための灯を一つでも増やすことだ。今すべきは灯りを整え、客が安心して鍵を預けられる環境を作ること——だが、それを妨げるものが目の前にある。宿の入口に立つ三人組のうちの一人は、昨夜の被害者の母親だった。彼女の目は赤く、顔は硬く歪んでいる。背後には噂と不安を抱えた近所の者たちがいる。

「カイ、ここにいるのはあなたでしょ?」母親の声は低く、責めるというより捜すようだった。カイは膝を折って同じ目線になる。背中にはまだ昨晩の疲労が残る。宿の大広間の一室で、彼は確かにある夢を具現化した。鍵は預かった。眠れない理由を一晩だけ夢の風景として見せる約束を交わした。だが夢は途中で崩れ、依頼者の記憶から一片が抜け落ちた。

「あなたたちがあの子と話をさせてくれるって言ったから、息子は鍵を預けたの。なのに、あの日の匂いが、笑い声が、消えたのよ。来週の誕生日、彼はその日のことを忘れているの。」母親の手がしゃがれて震えている。指先に残る力が、怒りと悲しみの混ざった新しい重さになっている。カイは息を吸い込む。守るべきは戦死者を待ち続ける街の人々と、宿から出られない名もない不死者たち。今、守るべき相手が自分の前にいる。彼らの痛みに向き合わずに灯を増やすことなどできない。

「まず謝ります。私が——私たちが、あなたの息子さんに何かをしてしまった」言葉は喉の奥から絞り出した。謝罪は結果を取り戻さないが、放置するよりは真摯であるべきだとカイは思った。

「謝るだけで済むの?」母親の問いは重い。だがその傍らで、背後に立つ給仕長のベラが一歩前に出た。ベラの顔は朽ちた艶を帯びた白磁のように冷静だ。骨の透く頬に皺が寄るが、口調には怒りよりも実務があった。

「今できることを示しましょう。どの場面が抜けたのか、どの記憶が消えたのか、具体的に教えてください。私たちは記録を取り、安全手順を改めます。そして——あなたの同意があれば、もう一度だけ可能な限りの再現を試みます。ただし、私自身は夢に入れない。手順を変えることで失敗の再発を防ぐのが目的です」ベラの声は低く、宿の空気を律する。

その場にいた老犬霊バロは、飼い主のように母親の手を鼻先で触れた。白い毛が風に揺れる。バロは客帳を守る者だ。昨日の夜以降、バロは客帳の空白のページを匂い、唸り声を上げていた。今朝も飼い主の手に擦り寄り、くすぐったいほどに慰める。

「記憶が抜けたのは、夢が崩れたからだって、あなた言ってたじゃないか」母親は苦しげに頷く。「でも、どうして——どうしてあのときだけ?」

カイは手の甲を擦り、思い出す。具現化は鍵を預かった部屋に限定される。宿主である自分は夢の中へは入れない。 同時に開けられる部屋は五つまで。昨夜は五室が満ちていた。ある時刻に外から大きな騒音があり、夢景の一つが揺らいだ。やがて一部の風景が痺れるように崩れ、依頼者の記憶に穴が開いた。夢を壊せば、客の大切な記憶まで薄れてしまう——その代償は既に現実になっていた。

「昨夜は五室が限界だった。外で子どもが花火を打ち上げた。衝撃で、夢の一つが構造を保てなくなったんです」カイは説明した。説明は弁明ではない。事実を伝える必要があった。母親はそれを聞いて一瞬、顔をしかめた後、また怒りを込めて言葉を放った。

「それがあなたの仕事よね?守るって言ったんでしょう?鎮めるって言ったんでしょう?息子は大丈夫だって言ったのに——」言葉が切れて、彼女は嗚咽を漏らした。カイの胸に冷たいものが落ちる。守ると誓ったものを傷つけてしまった。だが泣き崩れる彼女をただ見ているわけにはいかない。

ベラが静かに差し出したのは宿の古い筆と、バロの鼻先に見立てられた小さな墨壺だった。ベラは常に事務的だが、その手つきにはどことなく人間的な気配がある。

「記憶の欠落は具体的に何かを消したわけではない。欠落のある箇所を特定し、そこに新しい言葉や写真、匂いを置いていくことはできる。失われたものそのものを完全に戻すことはできないが、欠けた部分を埋める手助けはできる。あなたが許してくださるなら、私たちがその作業をします。カイ、手順を改めるのよ。順序と環境を再確認して、外的揺さぶりを遮断する。バロ、客帳の該当ページを示して」

バロは前足で客帳を慎重に引き寄せ、空白のページを鼻でなぞった。ページの中央付近に、小さな指紋のような痕跡が残っている。誰かがそこに名前を書き、消えかけたかのような跡だ。バロは目を細め、低く唸る。その唸りは怒りとも悲しみともつかない声で、宿の壁に反響した。

「私たちは外部に頼むべきではない」アニカが口を開いた。彼女は宿の庭で剣の鍔を布で磨いていたところで、会話を聞いて駆けつけてきたのだ。鎧の上に羽織った布が朝の光にわずかに輝く。アニカは戦場を嫌う者で、だが仲間のためには剣を取る覚悟を持っている。彼女の声には、戦いではなく共同性を選ぶ強さがあった。

「軍が口を出したら、この宿は兵器として扱われる。夢の使い方を彼らに教えれば、それは戦場で真逆の用途に変わる。私たちの失敗を正しく直して、同じ失敗を繰り返さないやり方を示すべきだ。外の手を借りれば、私たちの意図は消されてしまう」

カイはアニカの言葉に頷いた。彼女の主張は個人的な感情だけではない。外部を呼べば、迅速に見えるかもしれないが、宿が守るべき「一夜だけ話せる場」という原則が軍事目的に変質する危険がある。カイは自分の決断をかためねばならなかった。

「外には頼らない。私たちでできることを全部やる。まずは手順の見直し、外的ノイズの遮断、具現化中の監視体制の強化。加えて、夢が崩れた場合のケアプランを作る。被害を受けた人には、代わりに記憶を保持するための物語や写真の収集を手伝わせてほしい。家族の側にある記憶を私たちの手で保存する。そして何より、同意。誰かを強制しない。これを徹底する」カイはそう言った。

母親はしばらく黙っていた。湯気の立つ茶碗を両手で抱えながら、やがて顔を上げる。怒りがまだ燃えているが、その目は少し柔らかくなっていた。

「そうするのなら、見せてもらう。息子のためにやるなら、私たちも手伝う。あの記憶をもう一度思い出すように、あなたたちに頼るわ」彼女の声は小さく、しかし確かな決意だった。そこにカイは、宿を守る者としての一つの希望を見た。

その日の午後、ベラは作業場に家族を呼び寄せ、アルバムや小物を広げた。バロは客帳の当該ページの前に座り、銅の小さな缶に入った香をくゆらせる。アニカは外の窓を閉め、庭先の子どもたちに口止めをするように頼んだ。カイはその中心で、具現化手順を改めて復唱する。自分は夢には入れない。外的な揺さぶりを遮断するため、宿の中では完全な静寂を保つ。具現化の開始前後に付随する合図を明文化し、監視役を三名以上置く——といった実地の改良だ。

作業は意外に根気を要した。母親はアルバムのページをめくるたびにため息を漏らし、息子は古い袖の匂いを嗅いではぽつりと笑ったり、黙り込んだりする。ベラは手際よく指示を出し、アニカは静かに座って二人を見守る。バロは何度も席を立っ