不死者の宿屋 第10話「第9章」
夜風が宿の屋根を撫でると、軒先につるした小さな灯籠がかすかに鳴った。カイは裏手の階段を上がり、二階の廊下に腰掛けていた。手には薄く擦れた鍵束。今朝の鍵交換の記録を確かめながら、彼はやりたいことを言葉にしないまま何度も繰り返した。灯明祭までに、アニカの心の釘を抜きたい。戦場の痛みを抱えたままでは、住民も不死者も安心してこの宿を信頼できない。
夜風が宿の屋根を撫でると、軒先につるした小さな灯籠がかすかに鳴った。カイは裏手の階段を上がり、二階の廊下に腰掛けていた。手には薄く擦れた鍵束。今朝の鍵交換の記録を確かめながら、彼はやりたいことを言葉にしないまま何度も繰り返した。灯明祭までに、アニカの心の釘を抜きたい。戦場の痛みを抱えたままでは、住民も不死者も安心してこの宿を信頼できない。
「まだ起きてるのか」
屋根の端で甲冑を脱いだまま座っていた少女が小さく吐息を漏らし、そのまま肩越しにカイを見た。革の篭手の跡が白く残る細い手。彼女の顔には、戦いが刻んだ線があったが、そこにあるのは諦めではなく固い誇りだった。
「当たり前だ。夜に物音があると落ち着かないだろう」
「あなたは夜勤の癖が抜けてない、と言ってくれ」
「癖じゃない。仕事だ」
アニカはわずかに笑って首を振った。だがその笑いには嘘が混じっていた。カイはそれを見逃さない。
「……話せるなら、教えてほしい。君が何を恐れて、何を守りたいのかを」
アニカは黙って灯籠の明かりに視線を落とした。月の光が彼女の肩鎧に薄い銀色を落とす。やがて、低い声でぽつりと話し始めた。
「私は、戦うことを誇りにしていた。騎士には任務があって、守るべきものがあった。それがすべてだと思っていた。だけど……守れなかったんです」
「誰を?」
「仲間を。旗の下で、彼らが倒れていくのを見た。私は前に出ることができなかった。命令もあった。『持ち場を固めよ』と言われたら、動くべきじゃない。だけど、私の横にいた者たちは動いた。私は剣を引けなかった」
アニカの手がぎゅっと灯籠の縁を握る。爪先が白くなるほどに力が入っていた。彼女の瞳に浮かんだ光景は、カイには見えない。だが彼は知っていた——その記憶が、夜ごとアニカを揺り動かすこと。
「宿に来たのは、その夜の後だ。血の匂いが消えないまま、誰もが死んだ名前を呼んでいた。……それで、この宿の前で一人、立ち尽くしてしまったんです。誰かが扉を開けてくれて、温かい湯を差し出してくれて。私はそこで初めて、『守られる』ことを知った。だから、ここにいる。騎士であることを否定しているのじゃない。ただ、もうあのときの私は弓を引けない」
言葉は短かった。だがそこにある痛みは生々しく、カイの胸を締め付けた。彼はふいに、アニカが宿に深く関わっていることの意味を理解する。宿はただの仕事場や居場所以上だった。あの日の彼女を変えたもの、立たせたもの、それがこの宿だった。
「君の誇りを奪おうとは思ってない」
「そう言うのは簡単です」
「簡単かもしれない。でも——」カイは鍵束を軽く揺らして見せた。「誇りを、ここで生かす方法を一緒に考えたい。剣を取らない騎士だって、守れることはある。私たちの仕事は、人々と不死者の間の道を作ることだ。式を守る人、言葉を交わす場を整える人、儀を守る人。君の背中には、それを成すだけの力がある」
アニカは黙ってカイを見つめた。風が二人の間を通り、アニカの髪を揺らす。誇りは、彼女の言葉より先に首を振った。
「私の剣では人を斬れない。だが、人を守りたくないとは思わない。あなたは、それを私の『退却』と呼ぶだろうか?」
「退却じゃない。別の戦い方だ。戦場と同じ名を冠してもいい。守りの騎士、式の騎士——君なら作れる」
アニカはしばらく黙っていた。やがて小さく吐息をつき、膝の上に置いていた籠手を外すと、そっとそれをカイの前に差し出した。
「誇りを――使えるなら、使い方を教えてください」
カイは小さく頷いた。だがその瞬間、渡り廊下の向こうから小さな足音が近づいてきた。ベラが皿を抱え、屋根裏から顔を出す。
「主人さま、夜に訪ねてきた方が。子ども連れで、鍵を預けたいと。灯明祭の申し込みだそうよ」
「ああ……今は五室の上限がある。今開いているのは二、三、四、五か。誰か預けてしまうと、同時具現化はもう四だ」
「五までですって。宿主は夢の中に入れないって決まりも忘れないでね」
ベラの声には含みがあった。カイは記録を確かめる。確かに、今夜は四つの部屋が具現化のために鍵を預けられていた。五つ目までは受けられるが、越えれば祭の運営を止めねばならない。だが門前にいる親子は、どうしてもその夜に会いたいという。
「来客を断るのはつらい。だが、制限は守らないと代償が出る」
「誰かが忘れてしまうんでしょ。壊せば、名前や匂いが薄れる」
「そう。だから私たちは選べる人々と、順序を慎重に決めなければならない」
だが親子は待っている。アニカは立ち上がり、すぐに階段を下りて玄関へ向かった。カイは彼女の背を見送りながら、言葉を続けた。
「強制はしない。だが、君の判断でいい。君が『守る』と言うなら、実際に守ってほしい。式は詐術じゃない。人の意志がないと成立しない」
アニカは振り返らずにうなずいた。彼女にとって、それは新たな誇りのための戦だった。
玄関の戸が開くと、冷たい夜気と一緒に年配の女が息を切らして入ってきた。腕には眠りきれぬ孫らしい小さな子が丸く抱かれている。女は皺の深い顔で、震える手から古びた鍵を差し出した。
「お願いです。息子に会わせてほしいの。これが……これが彼の鍵なの」
「お名前をいただけますか」
「イリスです。名はエリオ。戦で……帰らず。毎朝、彼の布団を撫でては、声が聞きたくて眠れないの」
カイは手袋を外し、そっと鍵を受け取った。鍵は冷たく、所どころ錆びていた。鍵を預けるという瞬間、彼の能力が起動する条件が満たされる。客が鍵を渡す——その行為だけが夢を夜に具現化する許可となる。宿主は夢の中に入れないと彼自身に課せられた規約の一つ。カイは深呼吸をしてから布の小箱を開け、空いている部屋の鍵と交換した。
「寝られない理由を見せることはできます。ただし、決定はあなたがする。夢は、あなたの眠れない風景を一晩だけ外に置くものです。私がその中に入ってあなたを救うことはできません。もし夢が崩れたら——」
イリスの目に不安が走った。カイは言葉を切った。彼は既にその代償を知っている。夢を壊せば、関係する記憶の縁がぼやける。香り、声、名前。一部の記憶が薄れてしまうのだ。
「それでも、会いたいんです。忘れるくらいなら、会えない方がいいと言う人もいるでしょう。でも私は違う。息子の顔をもう一度だけでいいから見たい」
「わかりました。では、五つまでの制限を守って、今夜はこの部屋で具現化します。ベラ、バロ、君たちも説明を」
ベラは皿を抱えたまま深く礼をして、古い読み物のように手続きを進めた。老犬霊バロは、テーブルに跳ねるように前足を乗せ、宿帳を鼻で押し開いた。巴の銀の目が宿帳の空白行に留まる。そこは、いつもなら名が記されるべき場所だが、空白が一列分だけ目立っていた。バロはわずかに鼻を鳴らした。
「増えてますね」
「どれが?」
「空白の線が、また増えてる。朝見ると一つ増えているんだ。最初は気のせいかと思ったが、今夜も……」
アニカがその言葉に反応して立ち上がった。宿帳はバロの仕事だと知れ渡っている。彼が空白の数を数えるとき、そこには必ず理由がある。
「誰の簀子だ?」
「分からない。名のない滞在記録。記されていた