不死者の宿屋 第19話「第17章」
朝の薄明が宿の窓をなでるころ、カイは帳場の引き出しの中で指先を冷たくしていた。今したいことはただ一つ――空白の頁に触れた指の主を捉えること。だが妨げは、いつもそうであるように幾重にも重なっていた。五室分は既に灯明祭の予約で鍵を預かっている。具現化にはその鍵が要る。具現化すれば、最悪の場合、夢の崩壊が記憶を削ってしまう。記憶を削られるのは、たとえ相手が不死であろうと取り戻せない痛みだ。
朝の薄明が宿の窓をなでるころ、カイは帳場の引き出しの中で指先を冷たくしていた。今したいことはただ一つ――空白の頁に触れた指の主を捉えること。だが妨げは、いつもそうであるように幾重にも重なっていた。五室分は既に灯明祭の予約で鍵を預かっている。具現化にはその鍵が要る。具現化すれば、最悪の場合、夢の崩壊が記憶を削ってしまう。記憶を削られるのは、たとえ相手が不死であろうと取り戻せない痛みだ。
「朝ごはん、パテはいつもの分でいいかしら」ベラが背後から声をかける。給仕長の白い手拭いは、昨夜の残りのローソクの煤で黒ずんでいる。彼女の指先にはいつもどこか古い皿の匂いが残っていて、カイはそれを嫌だとは思わなかった。ベラは宿の不死者たちと長く働いてきた。台所の出入り口に立つ彼女の視線は、帳場の上に置かれた宿帳へと自然に向かう。
「五室、満たしてます」カイは短く答え、宿帳の頁をもう一度撫でた。頁はなぜか冷たく、紙屑の端が小さな波を作る。空白の行が毎朝少しずつ増えていることは、もう二人の間だけの秘密ではない。バロが鼻を鳴らして背後に来る。老犬霊は宿帳の匂いを嗅いでから、前足で一度だけページの端を押さえた。彼の瞳には、何十年も前の祭りの日の光がいつまでも残っているようだった。
「昨夜も来てたのか?」カイはバロに問う。犬霊はごく短く尻尾を振った。触れたかどうかを示すだけのしぐさだが、彼の動きには確信があった。ベラが小さな包みをカウンターに置いた。中には墨と羽根ペン、そして蝋燭と細い紐。ベラの仕込みはいつも過剰だ。だが今朝は、その過剰さが慰めに思えた。
「鍵を預けてくれれば、夢は見せられるのよ」ベラが言う。「けれども、あの人たちは鍵を預けない。預けたら何かが変わってしまうと、ずっと躊躇している」
「変わるっていうのは」アニカが戸口に立って、鎧の端を拭きながら割り込む。少女騎士の声は冷たく、だが針のように真っ直ぐだ。「ここは戦場跡の宿だ。名もない者がここに残るのは、戦場の秩序がここまで続いているからだ。国がそれを利用しようとするのは当たり前の話だ。鍵を渡さないのは、生きている者の恐怖だ。それを変えたいのか?」
カイはアニカの顔を見た。彼女の手は赤い血の匂いをまだ覚えているように、指先が少し震えていた。アニカは戦場を嫌っている。だが彼女の選択は単純ではない――戦場で誇りを持っていた日々が、彼女の今を支えているのだ。だからこそ、カイはあの少女が宿の一員であることを嬉しく思った。彼女が守ろうとするものは、戦うことでしか守れないものではない。
「昨夜、誰かが帳に触れた」カイは静かに言った。三人の呼吸が少し揃う。ベラの手が一瞬止まり、バロが顔を上げ、アニカの眉がピクリと動く。宿帳は普段から不死者の手の痕跡を拒む。肉体を失った者たちは、しばしば物理を通して名を刻むことを忘れてしまう。だから空白が増えるのだと、みんなは無言で納得していた。
「痕が残ってたのか?」ベラが問う。声の端に小さな希望が混ざる。
カイはゆっくりと宿帳を引き寄せ、最後に開いた頁の縁を撫でた。そこには、夜の蝋燭の油でわずかに滲んだ影のようなものがあった。黒い斑点が、指先で押し付けられたかのように、紙の繊維に残っている。墨ではない。指紋でもない。何かが、かすかに、文字のような曲線を描こうとして途中で止まった跡だった。
「手のひらの形じゃない。筆跡の断片だ」バロが低く呟く。犬霊の鼻先が一度だけ宿帳に寄せられ、ふん、と短く空気を吸った。「昔の匂いがする。署名を取り合うような、祭りの時に見た匂いだ」
ベラの顔の色が変わった。彼女は宿の給仕長として、不死者たちの名を呼び続けてきた。だがその名はここにはない。空白の行は、呼ばれ続けていない名の累積なのだと誰もが知っていた。だが今、そこに微かな署名の跡が残っている。署名は「名を取り戻す」ための始まりになるかもしれない――カイは本能的にそう考えた。
「どうして書けたんだ?」アニカが質問を突きつける。彼女にはただの事実以上のものが見えている。書ける者がいるということは、何かが変わり始めたということだ。変化は希望になるか、脅威になるか。彼女はそれを見極めようとしている。
「分からない」カイが答えた。「でも、書こうとした。途中で止まった。完全な署名じゃない。力はある。意思もある。問題は実行できるかどうか、そしてその後に何が起きるかだ」
ベラは布巾で手を拭き、カウンターに両肘をついた。「覚えてる? 祭りの晩に、若い奴がここへ来て、泣きながら名を書こうとしたことがあった。指が震えて、インクは紙に染まらなかった。私は思わず、筆を取って手伝った。翌朝、その人は笑っていなかったわ。記憶の端がほつれていた。彼の息子の名前を呼べなくなっていた」
言葉は空気を凍らせた。カイはその場にいたときの情景を思い出した。夢がくずれ、代償として何かが消える。具現化の代償をベラは、違う形で見てきたのだ。夢を媒介にすることは、記憶という繊細な布地を触ることなのだ。うっかりすれば、その布地の縁がほつれて、糸がほどける。
「だから強制はできない」バロが言った。老犬の声は乾いていた。「記憶を壊すようなことをしてはいけない。名の回復は、相手の意思でなければならない。自分で紙に触れて——自分で署名して——それができるなら、名は戻るかもしれない」
「それが今回の意味だ」アニカが短く言う。「署名の跡が本人の意思の証なら、こちらからの強制は必要ない。むしろ邪魔をしてはいけない。だが、どうやってそれを促すかが問題だ」
カイは宿帳をそっと閉じた。指先に残る冷たさが、まるで誰かの想いを吸ったかのようだった。宿は既に、名を取り戻すための手段を持っているが、その多くは鍵と夢の具現化に依存している。だが鍵を預けさせるには信頼が要る。信頼を作るには時間が要る。時間はイグナの影の下で鈍く流れていた。国軍の動きは近づいている。宿の存在自体が、戦の資源になるかもしれない。
「やるべきことは二つある」とカイはゆっくりと告げた。「一つは、この署名の主を見つけること。もう一つは、署名することが本人の選択になるような環境を用意することだ。強制ではなく、選択の機会を提供する。もし彼らが自分で名を書けるのなら――それは僕たちの望む方向だ」
ベラはため息をつき、遠くを見た。「良い話ね。でもどうやって不死者にペンを持たせるの? 触れること自体が難しい者もいる。手が透明になってしまう者もいる」
「触れられないなら、触れるものを整えればいい」カイは思い詰めた顔で言った。「例えば、紙の代わりに蝋の板を用意するとか、布地に染み込ませた墨を使うとか。バロ、君は封箱を嗅いでくれ。アニカ、外の見張りを頼む。ベラ、静かな部屋を用意してくれ。私は彼に会って、言葉を交わす。強要はしない。選べるようにするだけだ」
三人は同意のように頷いた。バロは尾を大きく振り、アニカはすぐに外へ出て門の見廻りに向かった。ベラは急ぎ足で階段を上がり、給仕の小さな手で布を取り出して宿の一室を変え始めた。その合間に、カイは鍵の入った箱を確かめる。五つの鍵は冷たく重く、預かった人たちの体温をわずかに保っているようだった。