不死者の宿屋 第14話「第一部幕間」
朝靄が宿屋の瓦屋根を撫でている。カイは木製の台に並べた鍵束を一つずつ確かめながら、今したいことを口にした。 「まず客帳のページを数える。増えてるかどうか。次に──六番目の鍵を確かめるんだ」 バロが古い鼻を鳴らして寄ってきた。透明な体に光る老いぼれの目が、ページの端に触れようとする。 「おやめ、バロ。ここのページは、手が触れるだけでも変わることがある」 ベラが手早く介錯するようにバロの手を遮った。給仕長の動きは無駄がない。皿を拭きながらも視線は客帳の方に残る。 「増えたんだ。昨夜より二つ。しかも真新しい白紙が、昼の灯りの下で目立つ」 アニカは鍋の蒸気の向こうで、それを聞いて眉を寄せた。腕を拭き、
朝靄が宿屋の瓦屋根を撫でている。カイは木製の台に並べた鍵束を一つずつ確かめながら、今したいことを口にした。
「まず客帳のページを数える。増えてるかどうか。次に──六番目の鍵を確かめるんだ」
バロが古い鼻を鳴らして寄ってきた。透明な体に光る老いぼれの目が、ページの端に触れようとする。
「おやめ、バロ。ここのページは、手が触れるだけでも変わることがある」
ベラが手早く介錯するようにバロの手を遮った。給仕長の動きは無駄がない。皿を拭きながらも視線は客帳の方に残る。
「増えたんだ。昨夜より二つ。しかも真新しい白紙が、昼の灯りの下で目立つ」
アニカは鍋の蒸気の向こうで、それを聞いて眉を寄せた。腕を拭き、腰にかけた短剣に指先を走らせる。
「名がない。ページだけが増えるって、どういうことだ」
カイは鍵束を手の中で回しながら、言葉を選んだ。「客が鍵を預けた部屋だけが、この宿の夢を一晩具現化できる。だが──宿主である俺自身は、その夢に入れない。しかも同時に開けられる部屋は五つまで。壊れた夢は、大切な記憶まで薄めてしまう」
言葉は彼らの間の空気を凍らせる。ベラの手が止まり、バロは低く唸った。アニカは短く息を吐いた。
「だから、君はそれを守るって──一人でなんとかしようとしてるんだ。それで、誰かが記憶を失えば、どうするつもりだ」
「独りでってわけじゃない。君たちがいる。君たちの同意と、手順が必要だ」
カイは鍵を並べ直す。手が触れる六番目の鍵は、ほかと違って光を吸うように黒く、冷たかった。触れるたびに指先が微かに痺れるような感覚が返ってくる。彼はそれをはっきりと感じた瞬間、目の端に寝顔の自分の姿が一瞬よぎったが、すぐに消えた。宿主は入れないはずだ。だが何かがその鍵に籠っている。
バロが客帳を口でくわえるふりをして見せる。彼は霊だが、宿帳を守る執着は生者のように強い。
「ページが増えるってことは、誰かが名を奪われてるってことだ。俺の嗅ぐべきにおいがない。昔の匂いが消えていく」
「昔の匂い」と言って、バロの目が濡れたように光った。彼は自分が守ってきた客たちの顔を一つずつ思い出す。名前と一緒に記された手紙、忘れられた誕生日の墨の跡──そのどれかが薄れていく想像に、胸が締めつけられた。
ベラは冷静に帳面を閉じ、台の上に新しい用紙を広げた。「手順をもう一回、厳格にする。預かる鍵には、預かり証を発行。証人は最低二名。客の意思確認は誓印で。夢を具現化する前に、記憶保持のための録書を残す。万が一、夢が崩れたら、すぐに中止して、補助措置を講じられるように」
アニカが首を振った。「公的機関や軍に知られたら、そんな手順なんて無視される。奴らは不死者を兵器としか見ない。力で奪おうとする」
「それなら、住民の支持を固めよう。やり方を教え、同意を得る。俺たちだけで抱え込むんじゃない」
三人三様の意見に、カイは深く頷いた。彼が望んだのは、一方的な解決ではない。灯明祭は一夜だけ話す場であり、その運用は共同体の合意によって成り立つべきだ。だが、実際に合意を集めるという行為は危険でもある。外に出れば噂は独り歩きし、好奇の目や強引な権力が寄ってくる。
「ここは、宿だ。客だけが来る場だが、客の中に住民もいる。住民が自分の選択を持てるようにしなければ、祭は形骸化する。強制は断じて許さない。だけど、軍が来たら、どうする」
べラの手が皿に戻るとき、皿は微かに震えた。「逃げはしない。だが、証拠は隠さない。必要なら公開する。正当性を町に示すんだ。言葉と記録で守る。拳で守るのは最後の手段よ」
アニカは黙って窓の外を見た。遠くの丘の向こうに見える道が、いつもより人影が多い気がした。彼女は視線をカイに戻して、短く言った。「ならば、俺たちが守る。だが、守るのは宿と人々。守るために剣を使うなら、俺が先に床ならぬ盾になってやる。やり方は選ぶ」
議論の中で、カイはやりたいことを語った。灯明祭を続けること。名もない不死者たちに選択肢を取り戻す場を作ること。六番目の鍵と増え続ける白紙を、ただの不吉な符号にして終わらせたくない。だが、そのために彼は自分だけで動かないと決めた。能力は便利だが万能ではない。五室の制限は手順と順番を生む。彼はそれを力に変えようとした。
「まず──鍵の扱いを見直す。俺が勝手に決めない。鍵を預けた客と、宿の代表、そしてその客が選んだ証人で、開放の順番を決める。五室の枠をどう回すかは、町会と相談する。それと──六番目の鍵には触れない」
ベラが小さく笑った。「あなたが触れられないものに、他人が触れられる可能性がある。それを見極めるのは、宿の在り方を変えるための鍵になるかもしれないわね」
カイの心の奥がチクリと痛んだ。六番目は宿主が開けられない自分の夢の部屋、彼の直感はそう告げていたが、それを確認する術はない。確かめれば、何かを失うかもしれない。失うのは彼のものであっても、周囲に波及する影響は計り知れない。
夕方、彼らは実務的な準備に取りかかった。ベラは預かり証と誓印の書式を作り、バロは客帳を物理的に守るための新しい封印用バンドを用意した。バロの霊の手のひらは、紙を扱うときだけは妙に慎重で、古い紙の匂いを確かめるように穏やかな動作を見せる。アニカは外壁の巡回路を調べ、町内会に協力を求める方法を考えた。道沿いに貼る簡易の看板に、「灯明祭は同意の上で行われます」と書くべきだと提案するのは彼女だった。
「同意は形になる必要がある。口だけじゃなく、証として残さないと、軍や金目当ての者がねじ曲げる」
「証を残すなら、誰が見ても分かるように。客が自分の名前を書く欄、証人の名前、開催日と同意のサイン。もし夢が崩れたら、その時点で記録に中止印を押す。記憶喪失が起きたら、記録をもとに回復を試みる」
カイは言葉の一つ一つで自分を納得させていった。共同で決められた手順が、彼の能力の不完全さを補ってくれるはずだ。
夜が濃くなり、宿の客はぐっと減った。だがロビーの片隅に、誰かが昨夜置いていった封筒が一本残されていた。封筒には軍章のような印が薄く押されている。ベラが手袋を外してそれを拾った瞬間、バロが低く唸った。
「触らないで。封印は公のものに見えるが、こういうものは足跡を残す。読むなら俺たちの輪で読め」
アニカが封を切る。中には簡潔な文面と、消えかけた印章があった。文面は固い筆致でこう告げていた。
「国軍検査隊、宿屋境界の現状確認のため、近隣巡査に同行を要請する。司令:イグナ」
三つの顔が同時に変わった。イグナ──名は重く、冷たく響く。軍の司令官の名がここに書かれている。言葉は簡潔だが、その裏には一方的な調査と接収の危険が透けて見えた。
カイは封筒の紙を指先で揉んだ。「彼らは理由をつけて入ってくる。境界を測り、不死者を軍事資源として扱う。手順や同意なんて言葉は彼らの辞書にはないかもしれない」
バロが客帳を抱くように前に出る。「そうなれば、俺の守るべき名も、あの白紙たちも、訓練された手で梃子のように動かされる。俺は、それを見たくない。見せたくない」
ベラは歯を見せて小さく笑ったが、その笑いはほとんど笑いではなかった。「ならば、先手を打つ。町に話をする。祭の意義を、住民の