不死者の宿屋 第13話「第12章」
朝の光が宿の木製の格子に斜めに差し込み、埃と蝋の匂いを引き連れて廊下を渡った。カイは細い布でカウンターの角を丁寧に拭きながら、心臓がずきりと疼くのを抑えた。今したいことは、ただ一つ――壊したものを取り戻すこと。取り戻せないなら、せめてそれをどう償うかを示すことだった。
朝の光が宿の木製の格子に斜めに差し込み、埃と蝋の匂いを引き連れて廊下を渡った。カイは細い布でカウンターの角を丁寧に拭きながら、心臓がずきりと疼くのを抑えた。今したいことは、ただ一つ――壊したものを取り戻すこと。取り戻せないなら、せめてそれをどう償うかを示すことだった。
「また来ているよ、外に群れができてる」バロの低い声が背後から聞こえる。廊下の端に座っていた老犬の霊は、目の色が澄んでいる。バロは昼間でもその毛並みを風に揺らすように見せかけるが、その視線の芯はいつも正確だ。
「待たせたくない。引き取ってくれ」カイは渋い声で言った。ベラが小さく息を吐く。給仕長の女は、箒の先で落ち葉をまとめながらも、眉間のしわを動かさない。
「ミルダさんが来るなら、きちんと説明しなさい。言葉を選べ」ベラは短く命じる。ベラの手はいつも料理の器を扱うように確かで、言葉も温度がある。だが今日はその口調が硬い。
戸を押すと、外の広場に集まった人びとの顔が見えた。噂は刃のように広がり、村人たちの不安と憤りが入り混じった様子になっている。カイは胸の奥で何かが醒めるような音を聞いた。灯明祭の夜、ある夢が崩れた。その瞬間に消えたのは、亡骸の輪郭か、それとも会うべき最後の言葉か。崩壊は物理的なものではなく、記憶という柔らかな繊維を擦り切らせた。ミルダはその破れ目に取り込まれ、今はたった一つの名前さえ思い出せなくなっている。
扉を開けると、ミルダが二人の隣に立っていた。頬は火照り、ひどく震える手を膝の上に押し当てている。彼女の目は乾いているが、そこにあるのは虚ろな探知だ。
「私の――あの人の顔が、抜けてしまったんです」彼女の声は切れていた。カイはすぐに近づき、そっと膝を折って同じ目線に下りた。彼女は自分から鍵を差し出した。祭りの夜、鍵を預け、部屋に入った。カイの能力が働き、部屋にその人の眠れない理由の夢景が具現化された。だがその夢景は夜半に崩れ、ミルダは見ていたはずの顔が色褪せてしまったと言う。
「思い出せないのは、どの部分ですか?」カイは問いを言葉に出す。答えが正確である必要があった。ミルダは指を震わせて額に当てた。言葉が薄くなるのを恐れている。
「名前が…名前が出てこない。声だけは、胸の奥にあって。笑った顔だって、たぶん知っているはずなのに。灯りの奥にあったのに」彼女は嗚咽を堪えた。
バロが唸る。老犬の霊はいつも冷静だが、今日の唸りには怒りが混じっていた。ベラは黙ってミルダの手を取って頬に触れる。触れながらベラはカイに小さく囁いた。「説明はあなたが。避けられないこともあると、きちんと。」
カイは息を吸った。そして自分の声を外に投げるように置いた。「ミルダさん。あの日のこと、私たちはあなたの同意と鍵を預かって進めました。能力の条件は変えられません。鍵を預けた部屋だけ、その人が眠れない理由を夢として一晩具現化する――ただし、私自身は夢に入れません。私ができるのは、枠を用意して、誰が入るかを調整することだけです」
彼の言葉は淡々としていたが、そこに明確な線が引かれていた。村人の中から小さなざわめきが上がる。「夢に入れない…」誰かが呟いた。
「それだけじゃありません。私が同時に開けられる部屋は五つまでです。もし六つ以上の希望が同じ夜に来れば、誰かを待たせることになります。さらに重要なのが、夢を壊すということの代償です」カイは言葉を選んだ。「夢が壊れた場合、そこに映されている出来事や関係の中の重要な記憶が薄れることがあります。魂を取り戻すための灯りが、逆に風で消えかけることだってある。昨夜、それが起きました」
説明の合間に、ミルダの顔から血の気が引くのを見た。怒りも悲しみも混ざった複雑な感情が彼女を突き動かす。バラバラの言葉が彼女の口を離れた。
「それなら、あなたは何をしていたの? どうして消えたの?」声は震えていた。外の人々の目がカイに注がれる。彼らは救いをくれることを宿に求めていたが、カイは万能ではない。
カイは喉を鳴らして答えた。「私は監視していました。夢景は宿の中で一晩だけ、具現化されます。それを守るのが私たちの仕事です。だが昨夜、夢の構造に外部の想念が干渉しました。具現化されたものは強い想念を引き寄せ、ときに互いに触れ合う。あの夜、隣室の夢と干渉が起きて、ミルダさんの夢に亀裂が入った。私は夢の中に入ることはできない。壊れかけたときに中で何かを繋ぎ止めることは――できなかった」
答えることで、カイは自分の無力さを自ら認めた。誰かが「外部の想念」と言ったが、それは言い訳にもなり得る。宴の夜、守る手順が足りなかったのかもしれない。
「外部の想念って、つまり?」客の一人が首を傾げる。
「隣室の記憶や感情、来宿者同士の未解決の念が具現化空間の境界で摩擦を起こすと、夢の輪郭がぶれることがあります」カイは続けた。「それを防ぐ安全手順はありますが、昨夜は運用が甘かった。私の責任です」
ベラが横に折り重なるように立ち、低く言った。「甘いも何も、私たちはあなたの宿です。責任は共有するけれど、最終的に窓口はあなたなのよ。だから、どうするつもり?」
カイは目を閉じ、一拍置いてから答えた。「手順を見直します。誰を入れるかの順序、同時開放の制限をより厳格に運用する。必ず事前説明をする。もっと重要なのは、もしもの時のケアを整えること。夢が壊れたときの補助と記憶の保全を、口約束で終わらせない。記録を取り、家族が何を失ったかを丁寧に扱う。私たちだけでやります。外の助けは呼ばない」
「外の助けを呼ばない?」アニカの声が驚きに割れた。少女騎士は腕を組んで立っていた。鋼のように見えるそれは、時折素朴な不安を見せる。彼女は戦場にいたが、戦いから逃げたと同時にこの宿の平穏に身を寄せている。今日の彼女の顔には、ただならぬ憂いがある。
「ええ。軍にも、学者にも頼まない。外の力が入れば、宿は解剖される。私たちが守ろうとしているもの――不死者と生者が自ら選ぶ場が、軍の理論の下に利用される恐れがある。記憶の具現化を兵器化する連中がいる。だから、私たちだけでやります。いまはそれが一番危険を逃れられる方法だ」
言った瞬間、外の空気が変わった。誰かの顔が強ばる。ミルダはかすかな笑みを浮かべたが、すぐにそれが崩れた。ベラは短く唾を吐き、バロは一声吠えたように見せかけて喉を鳴らした。
「外に出すことは簡単だわ。責任も分かち合えるだろうけど、それはあなたが恐れている通りになる」ベラの指先が硬く、鉄釘のようだった。「軍の手が入れば、事実を検証してくれる。だけど、結果として何が失われるかは見えない」
ミルダは震えながらも問いかけた。「でも――あなたはどうやって、私の記憶を取り戻すの? 私に戻る人の顔を見たい。どうして消えてしまったのか?」
カイは答えようとしたが、言葉が喉で固まった。冷静な説明は、彼女の痛みを薄められない。そこで彼は別の提案をした。「取り戻す――というより、残されたところを繋ぐ手伝いはできます。夢が壊れた代償は記憶の希薄化です。希薄化した部分を完全に戻すことはできないかもしれない。でも、残っている声や匂い、器物の手触りなどを頼