花火師 第22話「第20章」
ユウは広場の木製長椅子に蹲って、双方の掌をじっと見つめていた。掌の真ん中、古い火薬の匂いが染みついた薄い瘢痕と、今朝ついたばかりの黒い煤。指先は冷たく、右手の甲にはぱっと見わからない小さな赤い斑が一つ浮かんでいる。痛みはない。痛みがないのが一番怖かった。
ユウは広場の木製長椅子に蹲って、双方の掌をじっと見つめていた。掌の真ん中、古い火薬の匂いが染みついた薄い瘢痕と、今朝ついたばかりの黒い煤。指先は冷たく、右手の甲にはぱっと見わからない小さな赤い斑が一つ浮かんでいる。痛みはない。痛みがないのが一番怖かった。
「今、何をしたいんだ?」
リラがそっと声をかける。風が避難民区のテントを撫でる。彼女の瞳はいつもどおり、周囲の音を色として捉え続けていたように薄く揺れていた。喋るたびに彼女の両耳につけた細い飾りが小さく鳴る。音が近づく。ユウは手の煤を拭いながら答えた。
「残った工房を一つでも戻したい。協力してくれる職人を増やしたい。帰天祭の同時点火の根幹は、各地の分担だ。三色をばら撒けば王都の独占線なんて無力化できる。実証と証言を見せて、それで動いてもらうんだ」
「その『見せる』が難しいんだよね」ガルドが、陽に焼けた顔をしかめる。元宮廷点火士としての動作は、今も職業病のように無駄がない。彼はユウのそばに立って、折り畳みの巻物を広げた。そこにはコピーされた図面、実験ログの写し、そして昨冬にユウたちが集めた避難民の証言が綴られていた。原本は王都の監視官に持ち去られたが、幾重にも撮っておいた複写がここにある。
「だけど、向こうも怖がってる。王都からの圧力、脅し、雇われの告発者。君を守ってくれるほど大きな勢力はない。だから回って説得しなければならない。君ひとりで?」
「いや。ミナが来る。子どもたちも連れて行く。あの日耳栓を外したトオルも」
ミナの顔が頭の中に浮かんだ。避難民区の代表として、彼女は組織と情で動く。彼女が説得に出れば、家族を抱える小さな工房は考えを変えるかもしれない。リラが頷く。
「音で説明して、子どもが証言する。私が音を示せば、言葉の嘘はわかる。真実の音は嘘をつけない」
リラは立ち上がると、袖から小さな笛を取り出した。それは花火工房の合図笛で、昔の儀礼で使われた音色を模したものだ。彼女が吹くと空気が青く震え、ユウの中で「青」がはっきりと形を取り、どの方向に合図が行くかを示した。音は短く鋭い。集まっていた数人の職人たちが条件反射のように顔を向ける。だが表情は硬い。彼らの背後には、昨日ここを去った工房の影がちらついている。離脱した工房の看板、消えた刻印。王都の圧力は、既に瓦の一枚を剥がしていた。
最初に会うのは、北の小さな町にある石工房の長、ヤスダだった。舗道を歩く足取りは重く、道端の乾いた草が折れる音がユウの胸を締めつける。到着すると、工房の門には半ば閉ざされた看板と、署名の一部が消された古い契約書がぶら下がっていた。妻子の顔を思う職人の表情は、説得の余地を残さない。
ヤスダは腕組みしたままユウたちを見下ろした。
「王都から命令が来た。賠償金と、もし協力すれば一枚の免状を与える、と。お前らの言う安全手順も理屈ではわかる。だが俺の店は貸しもんで回ってる。俺が潰れれば妹の子の飯がなくなる。そんなリスクを背負えってのか?」
ユウは言葉より先に、巻物を差し出した。複写された図面と写真、夜間避難で成功した際の録音を書き起こした紙。そこに、トオルの声の文字起こしがある。ユウは指でその一行を指した。「子どもが耳栓を外した瞬間を、その声で書いた」
ヤスダは紙に触れた。皺だらけの掌が震えた。
「証拠なんて——王都は文書を持っていくぞ。お前らがどれだけ見せても、彼らは噂と恐怖で潰す。免状が、金が、役人の言葉一つで…」
「それでも、私たちを今夜の雨から助けてくれたのは何だ」ミナの声が低く入る。彼女の言葉は、庭先の乾いた土に固く根を下ろすようだった。「ヤスダさん、あなたの仕事は、壊れた家を直すことだろう。ここにあるのは、直すための証拠です。子どもたちの声。私たちは明日のご飯のために嘘はつかない」
ヤスダの目が揺れる。だが疑念は消えない。隣に立つ弟子の一人が口元を噛む。
「誰かが取り押さえられれば、それを見た連鎖で今日の飯が消える。村に戻ったら罰金だ。最悪は焚き付け罪。だから大工としても、俺は慎重になる」
ガルドが前に出た。声は穏やかだが、重みがある。
「僕の名はガルド。かつて王都の点火を仕切った。僕の仕事が間違っていたと認めるつもりはない。だが、監視官が記録を持ち去ったとき、僕は自分の名が利用されるのを見ることがあった。だから今、あなた方の恐れはわかる。だが僕は、君らが誰のために何を作るかを知っている。君らの技術は彼らの独占に使われている。それを戻すのは君らの手でいい。僕が証人になる。必要ならば、防壁の技術的な安全評価もやる」
静寂が落ちた。ヤスダの奥歯が鳴るような音がして、やがて彼は巻物を受け取った。眼光にかすかな湿りが混ざる。
「期限はいつだ?」
「帰天祭までに動かさないと、あの子たちの命が危ない」ユウの声が強くなった。だが心底は震えている。工房の離脱は計画の根幹を揺るがす。十の工房があれば、いくつかは離脱しても耐えられる。だが離反が増えれば、分散の理屈が瓦解する。
次の工房は鍛冶屋だった。そこに着くと、錆びた鉄と汗の匂いが混ざっていた。表の看板には新しい印が押されていた。王都の印章。鍛冶の親方は冷たくユウを迎えた。
「何度も言う。ここはもう関わらない。王都は触れさせない。役人に逆らえば金属は没収される。俺は金のプレッシャーを知らないと思ってるのか?」
「君の孫のための鉄具も、取り上げられる」ミナが言った。「今ここで守ることができれば、長い目で見たら村は安全になる」
鍛冶屋は唇を噛んだが、眼の端に冷たい光が走る。
「安全ってのは役人の言葉だ。帰ってきたら、誰かが現場で捕まる。俺の孫が屋台で泣く顔は見たくない」
その夜、ユウは小さな酒場の隅で手帳に数字を書きつけた。離脱した工房は三つ、風聞であと二つが揺れている。残っている工房は五つ。分担はギリギリ、だが一度でも裏切りが続けば計画は暗礁に乗り上げる。彼は掌の煤を舐め取りながら決めた。説得は、恐怖だけではなく希望を示す必要がある。データと、鮮やかな証言。音を示すことで、嘘を割る。子どもたちの声を持ってゆけば、職人たちの胸に届く。だがそれをするには、リスクがある。再び王都の目に留まる可能性。だが黙って手をこまねいているよりはましだ。
翌朝、ユウたちは避難民区からトオルを連れて、三つの工房を回った。トオルはまだ耳栓を手の中で握りしめている。彼の顔は引きつっているが、目には決意が宿っていた。ユウはトオルの前に立つと、静かに言った。
「喋ってくれ。あの日、耳栓を外して何を聞いたかを」
トオルは俯いたまま、かすかに頷いた。集まった職人たちの視線が一斉に集まる。ユウは空気を掴む。リラは背後で笛を構え、ガルドは腕組みをしたまま待った。ミナの背中が震えている。トオルの小さな声が、乾いた朝の空気に溶ける。
「最初にキーーって鳴って、次に短いポンって。空が青くなった。おばあちゃんがここ、こっち!って走った。火も怖くなかった。暖かかった。僕、耳栓、外したんだ」
声は小さいが、真実の重みがある。職人の一人が腕を組んだまま、唾を飲み込むのが見える。嘘はあまりにも下手だ。ユウはリラに