時間花の花屋 第6話「第5章」
朝の陽が屋根の切れ目から差し込むと、花店の棚はいつもより静かに息を吐いた。刻花の小箱が淡い光を反射し、ガラスの向こうに並んだ色とりどりの輪が眠っている。トーマはカウンターの上で帳簿を押さえ、開店前の決まり事をひとつずつ確かめた。鍵穴に刺し込む指先が震えないように、息を深く吸った。夜の橋下で見つけた白輪の印と、ガルドの言葉が胸の中でざわめいている。今日も動きはあるはずだ。運搬路のリズムは、止まっていない。
朝の陽が屋根の切れ目から差し込むと、花店の棚はいつもより静かに息を吐いた。刻花の小箱が淡い光を反射し、ガラスの向こうに並んだ色とりどりの輪が眠っている。トーマはカウンターの上で帳簿を押さえ、開店前の決まり事をひとつずつ確かめた。鍵穴に刺し込む指先が震えないように、息を深く吸った。夜の橋下で見つけた白輪の印と、ガルドの言葉が胸の中でざわめいている。今日も動きはあるはずだ。運搬路のリズムは、止まっていない。
棚の端、いつもセナが置くガラス瓶が一つ、そこにあるべき位置にないことに気づいたのは、彼女の足音がいつもより遅れて入ってきたときだった。セナは入口で靴紐を結び直すように、シャツの袖を引き下ろしてから、ふっと止まった。彼女の瞳が棚の空白に吸われたとき、トーマの手は無意識に瓶のあった場所へ伸びていた。
「……ない」
声は小さく、揺れていた。セナはしばらくそれを見つめ、やがて静かに笑おうとして笑えない顔になった。トーマは表情で何を聞くべきかを判断し、丁寧に言葉を選んだ。
「朝、置き忘れたんじゃないか?」
セナは首を振った。彼女の指先がふるえ、掌の中の空気を撫でる仕草は、いつもの朝の儀式そのものだった。瓶に空気を閉じる――そうして一日を始める。どうしてかは彼女は説明しない。説明する相手もいないからだ、と言うような沈黙が二人のあいだに落ちた。
店のベルが鳴り、客が一人、二人と通りを作る。トーマは胸の奥で何かが引っかかったのを感じながらも、受け渡しの準備をしていた。午前中の混雑が一番少ない時間帯だ。なのに、帳面の端に挟まって届いた紙切れが、店の外へ出てくる役人の靴音とともに、冷たい空気を運んできた。役人は公印を持ち、紙を指で押しつけるようにして渡した。紙の見出しは堅苦しく縦書きで、「雇用記録訂正通知」とあった。
「水城花房 従業員一覧 訂正を受領しました――」役人の声は事務的で、温度がない。それを読んだ瞬間、セナの顔が白くなる。紙の余白に、赤い印が重なり、そこに新しい一行が加えられていた。黒い筆致で書かれた文字が、彼女の目の前で重くのしかかる。「当該個人は公簿上、存在を有しない」と、簡潔に言い切られていた。
「そんな……そんなことが、できるのか?」トーマの言葉は震えた。役人は肩をすくめ、こちらに共感する義務はないと言わんばかりに足を返した。外では通りの向こうで政府棟の時計が鳴り、店の中に時間の針だけが残された。
セナはゆっくりと、棚の空所に背を向けた。彼女の手が無意識に空の場所を探る。そこにあったはずの瓶の重さを手に取る仕草が、彼女の動きの一部になっている。顔を伏せたとき、トーマはかすかに見えた彼女の唇の震えを見逃さなかった。記録から消すということが、どれほど決定的な行為であるかを、彼女は知らなかったわけではない。だけれど、知らないふりをして生きてきた。知ってしまったとき、どこへ向かえばいいのか分からなくなることを恐れていた。
「誰が、これを……」とトーマが言う前に、店の奥からガルドが戻ってきた。橋下で分けた帳面を手に、息を切らしている。彼の目は普段よりも血走り、髭の間に土と油の匂いを残していた。ガルドは一瞥して紙をめくり、そして、その紙切れを片手で掴むと、拳を固めた。
「またやりやがったのか。あの連中は手が早い」ガルドの声には怒りが混じり、同時に後悔がゆらりと揺れた。「誰かが公簿を穿り返している。外部と内勤が噛み合っている証拠だ。俺が昔押した印も、記録の一部も、さっきまでここにあったはずなのに、消されてる」
トーマは店の扉を開け、通りへ出た。足元に落ちていた足跡は細く、子供のものだとすぐに分かった。瓶の持ち去り方に荒っぽさはない。誰かがそっと、価値だと知っていても取り扱いを丁寧にしたような跡だ。トーマはそれを見て、胸の奥の不安がさらに深くなるのを感じた。
「やつらが狙ったのは記録だけかもしれない。だけど、瓶も一緒に持っていった」ガルドは橋の下で見た運搬記録の一部を取り出し、トーマに渡した。そこには、ある倉庫と――検査ステーションの一つの名前が、何度も繰り返されている。白輪を隔離するための予定調整が多数記録されていた箇所に、小さな付箋が貼られている。付箋には、手書きで「例外処理――個別鑑定」とだけあった。
「まずは、瓶を探す」トーマは短く言った。セナの顔を見れば、彼女が何を失ったのかがわかる。名前とは紙の上の文字よりも、日々誰かに呼ばれる時間の集合だ。彼女が毎朝瓶を置いたのは、それを確かめるための儀式だったと、トーマは思い至る。だがそれを奪うのは簡単だった。誰かがその儀式を芸術品のように扱えば、名前の音はいつでも消されかねない。
追跡は、人混みの中で実を結んだ。小さな商店の軒先で、薄汚れた少年が瓶を覗き込み、そこへ金貨を差し出していた。彼は止まることなく歩き、角を曲がったところでふらりとつまずいた。そのときトーマは息を詰め、駆け寄って少年の手から瓶を掴んだ。少年は驚いて瓶を離し、逃げ出した。すれ違う人々の視線は冷たく、取り返した瓶を持つ手は震えていた。
店へ戻る途中、トーマは瓶の蓋をそっと外した。中は空だ。空気が詰まっていると思っていたものは、ただの無色の空気で、触れても匂いはしない。けれど底の方に粉のようなものが溜まっているのが見えた。白い粉、ふわりと光を反射している。トーマはそっと指先を濡らし、それに触れた。粉は指の腹に残り、わずかな湿り気のあとに花の香りのような、だがどこか時間を折りたたんだような匂いがふわりと広がった。
彼は香袋を取り出すのと同じ所作で、その粉を嗅いだ。香脈読解は本来、花の香りを嗅ぐことで機能するが、これは花粉だった。花粉に残った香りは、最後に触れた人の断片を収める。鼻腔を通じて、視界が一瞬で奥行きを得た。花弁の中で、薄く浮かび上がる一場面。トーマの目の前に立体的に現れたのは、狭い裏通りで子どもたちが輪になって跳ねる光景だった。
「セナ!」
その呼び声は、訛りも混じらず、紙のように薄くない。何人もの声が一斉に重なり、セナを呼んでいる。名前の音が重なって、まるで小さな鐘をいくつも同時に鳴らしたような響きだった。場面のセナはまだ幼く、膝に泥がついて笑っている。誰かが彼女の肩を叩いて、もう一度「セナだよ」と囁く。光は瞬いて消えた。
記憶は一場面しか与えられない。トーマはそれが取り出された断片だと理解した。だがその断片は鮮烈で、胸の中に直接触れてくる。誰かが彼女を呼ぶ時間、呼ばれたときに生じる小さな振動が、瓶の中に閉じ込められていた。トーマはその余韻に浸りながら、胸の奥でまた母の声が一節、滑り落ちるのを感じた。能力を使うたび、母の記憶が一つ薄れていく。彼はそれを意識しながら、なお嗅ぎ、なお見てしまう。
「これが……」トーマは言葉を濁した。「これは――名前の音だ。書類の有無より先に、人に呼ばれるという事実を集めたものだ」
セナは目を伏せ、しかし静かに笑った。その笑みには哀しみが混じっている。彼女は瓶を差し出し、しかし取り戻すようには手を伸ばさなかった。指先が瓶の縁に触れると、彼女の肩が震えた。存在を否定されることが、どれほど深い孤独を生むかを、