離島の保育所の保育士は店を畳まない 第5話「第4章」
朝の潮風が、港の石段を舐めるようにゆっくりと入ってきた。保育所の引き戸を開けると、木の床が冷たくて、履き替えたスリッパの下でごく小さな潮の匂いが立った。子どもたちの歓声が奥の遊び場から跳ね返ってくる。綾は背中の鞄を畳んで掛け、手拭いで両手を拭きながら深呼吸した──昨日の町会の白い光、パワーポイントの無機質な文字列がまだ胸に刺さっている。
朝の潮風が、港の石段を舐めるようにゆっくりと入ってきた。保育所の引き戸を開けると、木の床が冷たくて、履き替えたスリッパの下でごく小さな潮の匂いが立った。子どもたちの歓声が奥の遊び場から跳ね返ってくる。綾は背中の鞄を畳んで掛け、手拭いで両手を拭きながら深呼吸した──昨日の町会の白い光、パワーポイントの無機質な文字列がまだ胸に刺さっている。
「おはよう、綾さん!」
「おはよー!」と、三歳の陽斗(はると)が沙羅(さら)の作った紙の王冠をくっつけて走ってきた。綾は軽く頭を撫で、陽斗の小さな手に触れた。――触れるだけで、いつものように彼の今日の調子がふっと伝わる。眠そうだなと分かる程度の軽さだ。綾はにっこり笑って、保育室の隅に並べてある道具箱へ向かった。磨くものが今日もある。
保育所の隅には、母親たちが持ち寄った古い鍋や木のシャベル、擦り切れたランチボックスが並べられる「手入れコーナー」があった。元は町の古道具を再利用して遊ぶために始めた仕組みだが、綾はいつのまにかそこを、疲れを見つける小さな窓にしていた。彼女のやることは単純だ。柔らかな布で拭き、さびや油を落とし、木には蜜蝋を塗る。手入れされたものが、使う人の一日を一瞬だけ語ることがある。その「語り」を見ると、周囲の人が小さな支えを差し出せる。だがそれは「一度だけ」。そして無理をすると、その力は消え、綾自身が眠れなくなる──昨日、彼女はそれを知ったばかりだった。
午前の遊び時間がひと段落したころ、玄関が開いて低い声が入ってきた。田村拓也(たくや)。漁師の帽子をかぶり、海の匂いを帯びた男だ。腕には昨夜の船仕事の油が残っていて、顔には眠りを削られた線が刻まれていた。拓也は綾に、無造作に新聞紙で包んだアルミの弁当箱を差し出した。
「綾さん。いつもすまねえ。昨夜も出てて、弁当も冷たくなっちまって……」
綾は弁当箱を受け取り、布で拭いた。アルミが冷たかった。磨きながら、表面にふわりと薄い影が現れる。影といっても形があるわけではない。小さな波紋のように、疲れの音が視界の端で鳴る。拓也が一日に抱えた重さが、淡い灰色の雲のように弁当箱を一度だけ包んだ。綾はそれを見て、心臓がぎくりとする。
「……海が荒れて、仕事が詰まって。潮が良いときに合わせるしかなくて、寝ているヒマないんだ。子どももまだ小さいし、嫁さんも夜勤入ってるから、朝は頼むって」
拓也の声はなるべく平静を保とうとする。綾は弁当箱を小さく返し、声を落とした。
「拓也さん、あのね。今日、午後に港の待合所で短い署名集めをしようと思ってるの。保育所を残すために。手伝ってもらえる?」
拓也は少し困った顔をした。そこに、昨日の会議の白い光があった。
「わしらは漁師だから、客観的な数字が見えねえ。人数も多くねえ。行政はそういうとこで判断するんだろう?」
「そうかもしれない。でも、ここで育つ時間や助け合いの場は、数字だけじゃ測れない。私たちが必要だって声を出さないと、遠いところに行かされるよ」
拓也は表情をV字に折るような無言のまま俯いた。綾は、弁当箱に現れた疲れを思いながら、ひとつ提案した。
「もし良ければ、今のままのお弁当でいいから、港で姿を見せてくれるだけでいいの。顔を見せる人が増えれば、町の人も動く。子どもたちにとってここがどれほど大事か、見える形にできるの」
彼はため息をついて頷いた。「ああ、わかった。昼に行ってみるよ」
その言葉が、小さな勝利の始まりだった。午後になると、綾は保育所に置かれた木の柄杓(ひしゃく)や、園児が持ち帰ったお弁当箱の蓋をせっせと磨いた。教師のチョークケース、遊具の木製レール、園庭の小さなブランコの鎖──一つひとつを丁寧に拭くたび、誰かのためのわずかな声が見える。少し前なら見過ごしただろう人影、ため息、握りしめた拳。綾は見えることを忘れずに、静かにその顔ぶれを心に留めていった。
港の待合所は、正午を回ると人が集まってくる。拓也が来て、隣の鮮魚店の女将が顔を出し、幼稚園の父母の一人がちらりと現れた。綾は紙の署名用紙とボールペンを手に取り、説明を始める。声は震えなかった。手元で磨いた道具たちの「語り」は、色んな人の胸を動かしていた。
「ここで子どもを預ける時間が、わたしたちの暮らしをつなげてるんだよ。それを消すってことは、働く場所も失うってこと」と女将が言うと、隣の男が顔を曇らせた。「でも、出張保育で人数がまとまれば効率いいんだろ? 市はその数字を重視する」
「効率は大事だけど、暮らしは効率じゃ測れない。ここがあるから成り立つ働き方があるんだ」と拓也が返す。彼の声には昨日見えた影の重さが残っていた。やがて、二十人ほどの小さな輪ができ、署名が少しずつ増えた。綾は胸が温かくなり、それだけで十分だと思った。
その夜、綾は保育所の小さな台所で使い古した木のしゃもじを磨いていた。朝からずっと研磨を続けていた手に、やっと休息を与えたくて、軽く香りのあるオリーブ油を布になじませる。しゃもじの木目がしっとりと光る。だが、そのとき、いつもと違う違和感が彼女の胸に広がる。息は詰まりそうに浅く、目の奥が微かに震える。
「……まだいける」綾は小声でつぶやいた。昨夜のことが頭をよぎる。能力は、この「手入れ」を介してしか働かない。使ったものは一度だけ疲れを語り、その後は普通の道具に戻る。だからこそ、今集められる声は限られている。もっと多くの人の疲れを見せれば、署名は一気に増えるかもしれない。けれども、代償もある。無理をすると力が消え、眠りから奪われる。あの日の夜、綾は眠ろうとしても眠れず、朝を迎えた。横たわっているはずの私が、とても遠くにあった。
綾はもう一度、しゃもじに手を当てた。手入れの動作は、体に馴染んだ儀式のようだ。布を往復させるたびに、しゃもじは小さな記憶を吐き出す。隣の集会所に持って行ったら、もっと多くの人が動くかもしれない。けれど同時に、体がいうことを聞かなくなる恐れもある。手の震えが少し強くなった。脳がゆっくりと二つの道を突き合わせる。
そのとき、台所の戸が開いて美帆(みほ)が顔を出した。彼女は保育士仲間で、町外の母親たちの動きを取りまとめることに自ら名乗り出ている人だ。美帆の目は意志に満ちていた。
「綾さん、さっきの署名、もっと広げるって話になったの。わたし、明日朝、市場の朝市で呼びかける。綾さんはここで道具の手入れを続けて、来る人を見てほしい。あたし一人でできるか分からないけど、やれることはやるよ」
綾はその言葉に驚いた。美帆は自分から行動していた。綾が力を使い続けるかどうか悩む間に、仲間が判断を下したのだ。
「無理しないで。あなたが倒れたら、意味がない」美帆は続ける。「でも、手入れは必要だってみんな分かってる。だから私は出る。あなたはあなたのやり方で、見えるものを見せて」
綾は布を握ったまま目を閉じた。外では風が波板を叩く音がした。手の内にあるしゃもじの温度が、彼女の指先に伝わる。もし力を使い続ければ――もっと多くの人の疲れが見えるだろう。署名は増えるかもしれない。けれど力が消えた瞬間、綾は眠れなくなり、保育所そのものを守る