離島の保育所の保育士は店を畳まない

離島の保育所の保育士は店を畳まない 第4話「第3章」

朝の風が、港に打ち寄せる波と同じ速さで保育所の縁側を撫でていた。潮の匂いと掃いたばかりの木の床の乾いた匂いが混じる。子どもたちの声が庭の方から跳ね返り、砂場のバケツがカチャリと音を立てる。綾は園の台所の窓を半開きにして、洗い桶に沈めたままの弁当箱に布を滑らせていた。布に残る温度が、まだ朝の匂いを運んでくる。

朝の風が、港に打ち寄せる波と同じ速さで保育所の縁側を撫でていた。潮の匂いと掃いたばかりの木の床の乾いた匂いが混じる。子どもたちの声が庭の方から跳ね返り、砂場のバケツがカチャリと音を立てる。綾は園の台所の窓を半開きにして、洗い桶に沈めたままの弁当箱に布を滑らせていた。布に残る温度が、まだ朝の匂いを運んでくる。

「おはようございます、綾さん」

扉の外から声がして、田島和美が顔を覗かせた。肩に掛けたバッグの重みが、歩幅の乱れを示している。頬は少し青白く、まぶたの下に細い影ができている。和美は子どもの手をぎゅっと握りしめ、慌てた様子で弁当箱を差し出した。

「今日もよろしくね。時間、大丈夫?」

綾はにっこり笑って受け取った。布を替え、まずは表面の塩気と米粒を拭う。布の繊維が弁当箱の蓋を撫でると、表面が薄く光る。綾はいつもの穏やかな呼吸で、磨く速度を一定に保つ。指先に伝わる木目の微かな凹凸、プラスチックの冷たさ。光が、磨かれた面で細く走る。

ぴん、と、湯気が上がった。

弁当箱の隅から白い蒸気がふっと立ち、そのまま小さな足跡のように空中を漂った。島の朝とは似ていない、繊細で肉の匂いもない蒸気。綾は一瞬息を呑んだ。足跡は、つま先が触れたような形で縁側の木目に落ち、一歩一歩が子どもの保育園に向かって踏みしめられるように見えた。

綾はつま先を少し上げて、その蒸気の足跡を辿る。木の冷たさが素足の裏に伝わる。蒸気は指の先ほどの細さで、だが確かに「疲労」の匂いを伴っていた。糸のように、誰かの一日を繋いでいる。

「お母さん、少しお話、いいかな?」

和美の声が、小さく震えた。綾は布を置き、椅子を引いて和美を座らせる。子どもは砂場に駆けて行った。綾は弁当箱の蓋をぎゅっと握りしめ、目を閉じることなく、見えるものを言葉にした。

「この蓋の光に、すごく疲れている糸があります。お弁当を用意する時間に追われてる。眠りが浅い。お弁当の中の海苔の匂いが強く、季節外れの残り物でお腹を温めてる。……お仕事、どうかな?」

和美は一呼吸置いてから、唇を噛んだ。「先週、会社から言われたんです。部門ごとに再構築すると。私、契約社員で……急に話が来て。園の保育料を減らすのがまず優先と言われて。どうしたらいいか、子どもを預け続けられるのか、不安で……」

綾は布で手を拭い、テーブルの上に弁当箱をそっと置いた。声は柔らかく、でも確かな重さがあった。

「急に全部を決める必要はないよ。今日明日で戻せるものがあるか、一緒に考えよう。島に頼れるところがどれだけあるか、私も当たるから」

和美はふっと肩の力を抜いた。目にためた水が一筋光る。綾は机の下で自分の手の甲にある小さな熱感を感じた。力を使った後の、いつもの微かな疲労だ。指先がしびれるような、胸の奥に小石がひとつ置かれたような感覚。深刻な声を出さずに、それを和美に見せないように微笑んだ。

「ありがとう。お願いします…」

綾は保育所の連絡網と、島内の配食サービスの名簿、共同作業が可能な畑の場所を思い浮かべる。島には、目立たない助け合いが幾つも残っている。綾は和美に、週に一回の食材交換の日を紹介し、園での時短預かりを試したらどうかと提案する。和美は涙をぬぐい、少し笑った。小さな救いがそこに生まれた。綾の心は温かくなり、疲労が釣り合いを取るようにわずかに押し戻される。

午前の保育が一段落したころ、扉が乱暴に開き、荒い息をついた母親が駆け込んできた。手には市役所のチラシらしい紙が握られている。顔は紅潮し、眼差しに焦りがあった。

「綾さん、大変! 市の調査が明日来るって。保育所の利用率をすぐに出せって。園長は出かけてるの、でも数字が必要なのに、うちも明日仕事休めないって人が多くて…!」

その声に、他の保護者も続々と集まってきた。ざわめきが広がる。綾の胸が締め付けられ、頭の中でいくつもの可能性が一瞬にして弾けた。利用率が低ければ、外部の評価は冷たい。補助は削られ、統廃合の議論が具体化する。店を畳まない、という綾の目的が脅かされるのはこの瞬間だ。

「待って。落ち着いて。まずは正確な数字を。それから、どういう資料が必要かを整理……」

綾は深呼吸をして、周囲に目配せした。だが内心には急ぎたい気持ちが燃えていた。時間がない。客観的な証拠を手にするには、すぐに保護者一人一人の事情を見なければならない。綾は思わず台所の流しに置かれた保温ボトルを手に取り、布で擦り始めた。急げば急ぐほど、真実が掴める気がしたのだ。

布を強く押し付け、滑るように動かす。磨く速度を上げると、感覚が薄れていく。指先に残るはずの細かな温度変化、微細な蓋のへこみ、そうした手掛かりが、ざらりと剥がれ落ちる。弁当箱の表面は艶を増して光るだけで、蒸気の足跡は上がらなかった。綾の胸に、冷たい波のようなものが広がる。力が、縁から抜けていくのがわかった。

「何も見えないの…?」

後ろで誰かが囁いたように聞こえた。和美の顔が曇る。綾は唇を噛み、手のひらを握りしめた。急いでしまった瞬間、力は自分のものにならない。そういうルールが働いた。だが今回は、失敗だけで終わらなかった。急いで取り戻そうとしたその直後、綾の内側が冷たくなり、視界の端に暗い波形が寄せてきた。

「あっ…」

言葉にならない声とともに、吐き気めいた感覚が腹の底から湧き上がった。心臓が早鐘を打ち、手足の指先が火照る。綾は椅子に腰かけ、テーブルに額をつけるようにして数秒だけ目を閉じた。呼吸を整えようとするたびに、まるで眠りがすり抜けるような感覚があった。いつもの疲労より深く、重く、身体が「休めない」と警告している。

「綾さん!」

園長の声が遠くから響いた。誰かが背中を叩く。綾は平静を装い、顔を上げた。笑顔を作ろうとすると、頬の筋肉がぎこちない。だが決して倒れるわけにはいかない。保育所は、笑顔で回っている必要がある。

「ごめん、私が間違えた。今から一件ずつ、落ち着いて聞いていこう。急がなくていい。私が資料を整えて、皆さんの状況をまとめます。明日までに数字を出す。でも、無理はさせないで。預けられない人は、預けられない事情がある」

綾の声は震えていたが、言葉には筋が通っていた。外側の冷たい感覚を押し殺して、内側で何とか均衡を取る。保護者たちは互いに目を合わせ、少しずつ声が落ち着いていった。誰かが携帯を取り出し、スケジュールを照らし、また別の誰かが「うちのシフトを替わるよ」と言った。島の静かな慣習が、慌ただしさを徐々に飲み込んでいく。

綾は台所の窓に寄りかかり、指先の痺れを確かめた。布で拭いた弁当箱を静かに棚に戻し、和美といくつかの手立てを具体化したメモを残す。だが胸の奥には、先ほどの「休めない」感覚が暗い引っかかりとなって残っている。眠れば消えるはずの疲労が、眠りを拒むように反発していた。夜になれば、異常なほどに目が冴えるかもしれない――綾は直感した。

その時、園の掲示板の端に、見慣れない封筒が差し込まれるのが目に入った。白い封筒には役所の印が押してあり、差出人は「地域再編調査事務局」。手渡したのは誰かの公用車の運転手のようだった。綾は息を吞んだ。保護者たちも集ま