離島の保育所の保育士は店を畳まない 第29話「巻末特別章」
海風が引く縁側に腰を下ろすと、綾は呼吸をひとつ整えてから布を取り上げた。朝の光はまだ低く、磨いた鉄や木が柔らかく光を返す時間帯だ。彼女の手は習慣のように動く。古い金属の笛、木の匙、陶器の小皿――どれも何度も擦られ、拭き取られてここまで来た品々だ。布が滑るたび、波の音が裾の方から届く。塩の匂いと湿った木の匂いが混ざって鼻の奥に残った。
海風が引く縁側に腰を下ろすと、綾は呼吸をひとつ整えてから布を取り上げた。朝の光はまだ低く、磨いた鉄や木が柔らかく光を返す時間帯だ。彼女の手は習慣のように動く。古い金属の笛、木の匙、陶器の小皿――どれも何度も擦られ、拭き取られてここまで来た品々だ。布が滑るたび、波の音が裾の方から届く。塩の匂いと湿った木の匂いが混ざって鼻の奥に残った。
「綾さん、今日の集会は八時半からです。役場の書類、渡しておきました」
田渕まゆがふんわりとした手提げを差し出す。まゆの声はいつも通り穏やかだが、そこに入っている封筒は冷たく見えた。印字された文字は、自治体の判子が押してある。綾はそれを受け取り、角を軽くつまんで開ける前に、布で匙を一つだけもう一度擦った。
―光が上がる。薄く、透明な糸のような光が匙の先から伸び、縁側を渡って歩いてくる。その先に、昨日の午後に来た若い母親、佐久間絵里の肩が見えた。絵里は笑顔で子どもを追いかけるが、肩の辺りに重い鉛のような塊がぶら下がっている。綾はその塊が一度だけ、はっきりと見えるのを感じた。光は絵里の顔に触れてから静かに消えた。
「おはよう、絵里さん。今朝は、いつもより少しだけ、あなたの時間を取り戻す余裕があるかもしれないよ」綾の声は低く、しかしすぐに実行に移る決意に満ちていた。「あの、夕方に少しだけ預かってもいい?園で遊ばせて、その時間で窓辺に座ってもらうとか……」
絵里は言葉を探してから、ぽつりと頷いた。綾は匙を残りの品に戻した。力はあった。きちんと一つずつ見えた。彼女はそれを慎重に使う術を身に着けていた。だが、今日は違った。門の鈴が同時に三度なったのだ。岸田壮(きしだ・そう)と名乗る漁師、町会からの年配の数人、そして保育所に手を差し伸べに来たはずの県の若手職員が、重ねて廊下に姿を見せた。
「綾さん、貸してほしいものがあるんだ!」岸田が大きな手で風呂敷を放り出す。濡れた網と、割れかけた弁当箱が露出した。年配の一人は杖を預け、職員は書類を押し付ける。全員がいっせいに言葉を重ねる。
綾は一瞬で状況を見渡し、内側から何かがざわつくのを感じた。磨いて示すことができれば、一人ずつにあった小さな糸口を提示できる。だが同時に、それは禁じられたやり方でもある。彼女の能力は「一度だけ」しか見せられないこと、そしてそれを急いで、数を優先して使えば脆く砕けることを彼女は骨の髄まで知っている。だが、窓の外で岸田の孫が転んだらしい声がした。職員の書類は「即時提出」を強調している。時間が、全部を押しつぶすように迫っていた。
「順番に、いい?」綾は声を張り上げなかった。声は低く、しかし明確だった。「まずは絵里さん。次に岸田さん。書類は……夕方に一度、町会でまとめて見せてください。今は子どもたちの時間を優先するから」
言葉にした瞬間、何かが決壊しそうになった。人々の顔に戸惑いが走る。職員はタブレットを握りしめたまま、不満げだ。岸田は胸を張ろうとしたが、孫の顔を思い出して黙る。年配の女性は杖をまたぎ直し、顔にしわを刻んだまま「わかった」と言った。
綾は絵里の弁当箱を手に取り、ゆっくりと磨く。布が滑るたびに光の糸が立ち上がり、弁当箱を使う次の人の疲れを一度だけ織り出した。今回は、絵里の疲れが溶けて小さな欠片となって皿の縁に落ちる仕草を見せた。その欠片は、絵里自身が自分の手で拾い上げることが可能なサイズだった。綾はそれを見届け、そっと笑った。小さな勝利だ。
しかし、その後に来た岸田の網は、長くて絡まった重さを示した。磨くたびに、漁師の肩を伝うロープのように見える。彼は数年間、朝から夜まで海に出ていたが、息子が都会へ出て戻らず、機械の導入で漁が変わり、稼ぎも安定しなくなったと続ける。その糸は一本ずつ切れそうで切れない。綾は慎重に刃になる言葉を選び、町の助け合いのリストを取り出した。しかし同時に、廊下の隅で職員が書類の提出を促す声が大きくなった。彼女は二つの方向に体を引かれるような気分になった。
「お願いだから、急がないで」まゆが綾の袖を掴む。まゆの目は心配そうだ。
綾は首を振る。自分の足元にある小さな力の感覚が、かすかに痺れるのを感じた。それはまるで、波が濡れた石をさらっていくような、じわじわした削れ方だ。彼女は知っている。急いで役に立とうとした瞬間、光は脆く砕ける。能力が消えれば、彼女自身の身体にも代償が降りかかる。眠りが逃げ、胸の奥が冷たくなる。翌日は動けない。子どもたちを預かる保育士として、それは許されない。
だが、その朝はもう一方の選択肢があった。人々を待たせること。誰かを優先すること。綾は息を吸い、決めた。力を精選して使う。書類のことは町会で話し合うと宣言し、その代わりに保育所でできる即席の交換会を開いた。漁師の網は修理のワークショップで近所の若者と共有されることになり、年配の男性には短時間の家事代行の手が差し伸べられた。絵里には午後の一時間を渡した。みなが自分で跨ぐべき線を見つける時間を、綾は意図的に作った。
終わったとき、綾の手は冷たく、肩に小さな震えが残っていた。力はまだ残っていたが、削られていた。昼が過ぎ、彼女は少しだけ横になろうと保育所の小さな寝台にもたれた。だが夜になっても眠れない。まるで針が胸の奥で回るように、交代で痛みが来る。瞼の裏に光の断片がちらつく。何度か浅い眠りに落ちかけては、起き上がる。時計の針が遅く動く音だけが、部屋に対して過剰に大きく響いた。
深夜、綾はそっと縁側に出る。海は黒く、潮騒が遠い鼓動のようだ。布団を取りに行くはずだったが、代わりに封筒を手に取った。朝、まゆが渡してくれた自治体のものだ。綾は中身を開ける元気もあまりなかったが、指先が震えながらも紙を折った。
そこにあったのは、堅い厚紙の小さな写真だった。白黒で、撮られた年代を感じさせる。写真の中の風景は、今の保育所に似ている。建物の角度、前庭に生えた一本の松、低い塀――そして、中央に写るのは小さな男の子だった。彼は綾たちの知る若い開発担当者の顔と、どこか重なる。子ども特有のぎこちない笑顔と、肩にかかる小さな紐で結ばれた布が目立つ。その布は、保育所に今も置いてある古い手仕事の風呂敷と同じ柄だった。
綾は写真の裏を見た。そこに、細い鉛筆で「帰れる日まで」とだけ書かれていた。文字は、幼い手の持ち物を庇うように、しかし確かに決意しているように見える。
波の音が、少しだけ大きくなる。綾の胸の奥で、何かが沈む。写真はただの紙切れだ。だが、そこに写る顔と風呂敷の柄が重なるとき、彼女の中で線が結ばれる。制度と人とが、ここで—この小さな場所で—交差しているという予感が、眠れぬ体をさらに軽く震わせた。
背後からまゆの足音が近づき、そっと縁側に座る。二人の間に言葉はしばらく要らなかった。まゆが小さな声で尋ねる。
「それ、どうする?」
綾は写真を両手で包むようにして、海の方を向いた。風が顔に触れて、塩の粒が頬にひやりと残る。彼女の中にはまだ、力を使いすぎたときの冷たさが残っている。眠れない夜がこれから二晩、三晩と続いたら、保育所の朝は維持できない。だが目の前にあるのは、単なる書類ではない。誰かの時間