離島の保育所の保育士は店を畳まない

離島の保育所の保育士は店を畳まない 第28話「終章」

町会館の窓から潮の匂いが流れ込んできた。夏の夕方に紛れた塩の湿気は、畳の縁に沈んだ古い糊の匂いと混じり、会場いっぱいに広がっている。蛍光灯の白がやや冷たく、壁に掛けられたプレゼン用のスクリーンはまだ真っ白のまま。人々は前後にざわつき、子どもたちの足音が低いビートのように場内を刻んでいた。

町会館の窓から潮の匂いが流れ込んできた。夏の夕方に紛れた塩の湿気は、畳の縁に沈んだ古い糊の匂いと混じり、会場いっぱいに広がっている。蛍光灯の白がやや冷たく、壁に掛けられたプレゼン用のスクリーンはまだ真っ白のまま。人々は前後にざわつき、子どもたちの足音が低いビートのように場内を刻んでいた。

海野綾は、両手のひらで布を押し付けるようにして、古い木のベルの縁を撫でていた。保育所の入口に掛かっていた、小さな鐘だ。柳のように磨り減った木目が、彼女の指の熱を吸って光る。手の感触は塩と油と、年間を通した子どもの手垢が混じったもので、彼女はその抵抗をいつものように確かめると、場内を見渡した。

「綾さん、始めますよ」

堀口健太が小声で言った。彼は保育所の非常勤講師で、今日は保護者代表の一人として壇上に立っている。高田孝爺ちゃんは杖をつきながら三列目に座り、久保江里は春を膝に抱いていた。森下浩介はペンを回しながら、会議資料に目を落としている。開発会社の佐渡は、腕組みをして威圧的に見えたが、その顔にもどこか緊張が走っている。

綾はただうなずいて、布でベルの面を一度、静かに撫でた。磨かれた木肌がほんのりと光を返す。

その瞬間、薄い光がベルの縁からふわりと立ち上がった。目に見えるか見えないかの細い糸のようなものが、会場の空気を横切る。最初に光を見たのは春だった。子どもはぽかんと口を開け、指を伸ばす。光は春の小さな肩をかすめ、すっと消えた。

綾は息を吸い、静かに話し始めた。「これから、ここにいるみなさんの……疲れを、少しだけ見せていただきます。長らく外に出さなかったものを、共有したいんです」

誰も声を上げない。空気は畳の匂いと、乾いた紙の擦れる音だけを残した。

彼女はゆっくりとベルを乾いた布で円を描くように磨いた。木の表面が滑ると、また光が生まれ、今度は会場の中央を走った。光は最初に江里の弁当箱のふたに絡み、ついで高田の右手の甲に止まった。光の形はそれぞれ異なり、江里には絡まる糸のように、普段は見せない肩の重さが、引き伸ばされて透けて見えた。高田には重い輪のように、冬の凍った海を何度も見送った時の疲労がよどんでいる。

森下の目に光が触れたとき、会場の空気が一瞬凍った。彼の肩にぶら下がっていたのは、白く細い鎖のようなものだった。資料に示された数字の影で、彼は自分の家族の額縁をいくつか思い浮かべたのだろう。ぼそりと、小さな声が漏れた。

「そういうの、見るのはつらいよ……」

佐渡は、資料をぎゅっと握りしめると、表情を固めた。だが外面の沈着は崩れなかった。彼の周りに光が触れたときには、それが冷たい輪郭を帯び、数字の裏に隠された計画書のページがふわりと開くようだった。会場は静けさを保ちながらも、微妙に震えていた。

綾は続けた。「疲れは恥でもなく、損でもない。ただ、見えないと無くなっちゃうんです。無くすと、制度は『効率』だけを見てしまう」

だが彼女の指先には硬い違和感があった。会場に触れた光がだんだんと広がる。保護者一人、老人一人、最初は三、四人だったが、綾はそれを増やしてしまった。彼女は自分の意思で光を引き伸ばし、隣の席、さらにその隣へと――より多くの疲れを同時に示そうとした。

「だめだ、綾さん、無理しないで」堀口が叫んだ。

だが綾はやめられなかった。目の前の白紙のスクリーンに何かを刻みたかった。彼女自身が見せなければ、制度は何も変わらないと心の奥で叫んでいた。磨く速度が上がると、光は一瞬激しくなり、会場の空気を震わせた。人々の胸の奥に結びついた疲れがすべて、薄い糸となって、綾の手元へ引かれてくる。

そのとたん、指先から熱が引き抜かれたように消えた。光がぱたりと止まる。布が滑る感触だけが手の平に残り、綾は大きな息を漏らした後、膝から崩れるように座り込んだ。鼓動が耳に響く。額から汗が流れた。視界の端で春が泣き出し、江里が膝に押さえる。

「綾!」高田が手を差し伸べ、堀口と森下がすばやく近づく。綾は手を振る力もなく、ただ口をきゅっと結んだまま、浅くうめいた。

森下は腰をかがめ、真剣な眼差しで綾の顔を見た。「……無理させちゃいけない。君の力は、誰かのために使うには代償が大きすぎる。だけど──」

彼は一拍置き、周囲に向き直った。「それでも、今ここで示されたものは消えない。数字以前の人間の疲れだ。役場はそれを紙の上で見ないふりをしてきたけれど、私たちが、ここで提案すれば、行政も対応せざるをえない。模型でもいい、実践でもいい。試験プログラムを出すんだ。時間は三週間しかない。県の次の会議で審議される資料が組まれるときまでに、ここの実現可能性を示さないと、統廃合の流れになってしまう」

会場から低いうなり声と、クシャクシャッと紙をめくる音が起こった。佐渡は冷たい声で「試験なんぞで何が変わる」と吐いたが、高田の目はずっと綾を見ていた。江里は春を抱き締めると、はっきりとした口調で言った。

「私、会社のシフトを調整するわ。午前中、必ず交代で保育所に来る。正社員じゃないけど、子どもを預ける場がなければ働けない人はいるの。私だけじゃない。みんなが工夫すれば時間は作れる」

隣の女性が、手を挙げた。「私も。家のことなら、夜にまとめてやる。時間は奪われてるって思ってたけど、やりくりしていけば何とかなるかもしれない」

堀口が即座に鉛筆を取り、机の上に大きな紙を広げた。「では、当面の案だ。時間交換のスキーム。夏場は漁師さんが迎えに出る。高田さん、船出してくれるか?」

高田は短く頷いた。「港で子どもたちを見るのは慣れてる。朝の波なら任せとけ。そうやって島は回ってきたんだ」

佐渡が口を開いた。彼は使い古した上着の襟を掻き、言葉を選んでいるようだった。「私には、会社の業績のこともある。だけど……外から見れば、君たちのやり方は非効率かもしれない。でも、もし自治で試験して成果が出れば、会社も行政も考えを変えざるを得ない。私が資料を持って県にかけ合う。ただし、会社が許す保証はない。これは俺の個人的な申し出だ」

その発言に、会場はざわめいた。誰もが驚いた顔をする。森下はそれを受けて、重ねて言った。「三週間で、実働プラン、参加者一覧、簡易予算、リスク対策。役場としてはそのフォーマットを一緒に作る。これで県に提出する。綾さんは、もう力を無理に使わないでほしい。代わりに私たちが行動する」

綾は小さく笑った。砂浜のようにぎこちない笑顔だったが、その瞳ははっきりとしていた。「私が見せようとしていたのは、結局のところ、『見えること』じゃなかった。見せたあと、誰が動くか、だよね」

堀口が手早く大きな紙に項目を書き出す。子どもの迎え・送迎のシフト表、食事当番、保育士の補填案、経費の持ち出し。久保江里の名前が一番上に載り、堀口はにやりと笑った。「君は昼のリーダーだ」

「いや、そんな大層な」江里は照れながらも頷いた。会場では次々と手が上がり、誰かが自分の得意分野を言い、誰かがリストに名前を綴る。森下は資料の束を脇へ置き、こう言った。

「プレゼンの仕方も変えよう。利用率だけを出すんじゃなくて、『時間交換での実働時間』『世帯の可処分時間の変化