離島の保育所の保育士は店を畳まない 第20話「第18章」
台所の古いやかんが静かに湯気を上げていた。綾は濡れた布でその口を拭きながら、金属の縁を指先でなぞる。毎朝の習慣だ。塩と油と木の柄に残る手垢を落とすと、道具は小さく息をするように光を取り戻す。今日は保育所の開所時間前に、給食で使う大鍋の底を擦っていた。掌に伝わるざらつきと、薄い油の匂いが落ち着かせる。
台所の古いやかんが静かに湯気を上げていた。綾は濡れた布でその口を拭きながら、金属の縁を指先でなぞる。毎朝の習慣だ。塩と油と木の柄に残る手垢を落とすと、道具は小さく息をするように光を取り戻す。今日は保育所の開所時間前に、給食で使う大鍋の底を擦っていた。掌に伝わるざらつきと、薄い油の匂いが落ち着かせる。
戸が押し開き、ささやかな足音が混じった声が入ってきた。四歳の陽大(はると)が入口の踏み台にのぼり、手にした小さな茶椀を差し出す。彼の眼は黒く丸く、朝の光を吸ってそばの母の肩を映していた。綾はふと、その瞳の中に不思議な滲みを見た。光が一度だけ歪み、母の肩に薄い影のようなものが重なっている。
「おはよう、陽大。今日は…お母さん、眠れてない?」
母の名は真希。表情は薄く引きつり、髪は後ろで雑に束ねられていた。綾が差し出した茶椀を受け取り、真希は笑って首を振る。だがその笑顔がどこか重い。綾は自分の手元にある木べらを見つめた。あの光景――子どもの瞳に映る母の肩の光――は、彼女が手入れした道具が発する小さな力の仕業だった。手入れされたものが使われると、使う人の疲れが一度だけ見える。綾はそれで、誰かの「詰まり」を見つけることがある。
「綾さん、それ見えるの?」と、はな(花村)が小走りで寄ってきた。花村はいつも明るくて、でも今朝は眉を寄せている。後ろから園長の村上も顔を出した。三人の視線が真希に集まる。
綾は短く頷いた。真希の肩には、小さな灯が差したように見える。色は褪せた藍色で、縫い目のほつれのように見えた。それは「眠れない」という具体的な疲労だけでなく、生活の圧の積層を示している。真希は母子家庭で、島の漁協でパートをしている。夜に入ることもあり、保育の時間はいつも綱渡りだという噂は聞いていた。
「市の福祉課に連絡した方がいいかもしれない」と村上が言う。村上の声は低く、しかし決意が滲んでいた。彼は書類と電話番号を頭に入れているタイプだ。
はなは首を振った。「でも、行政は来ても――それで真希さんが助かるとは限らない。制度には『効率』っていう名前の秤がある。親の選択を剥ぎ取ることもできる」
綾は木べらを握る手に力を入れた。力が見せるのは「一度だけ」の真実だ。何度も繰り返せない。だから綾は、見えたものをどうするかでいつも悩む。今日見えたのは連鎖した疲労だった。真希の疲労は陽大にも影を落とす。これを放っておけない。だが外部を呼べば、手を差し伸べるはずの人が、紙の手続きで圧し潰される可能性がある。
「まず、私たちでできることは何か」と綾は言った。「一晩預かって、夕飯をここで一緒に済ませるとか。今週のシフトを調整して、真希さんが夜だけでも休める日を作る。行政は、どうしても必要なときに最小限に頼る」
村上は眉をひそめたが、うなずいた。「それなら、記録はつけておこう。万一、後から説明を求められても困らないように」
綾は微笑もうとしたが、胸の奥に冷たいものが広がった。自分の力を使えば、この母子の「見えない重さ」は公的な介入につながる。前に一度、綾が見せた疲労をきっかけに来た支援は、結果的に一家の生活の選択肢を狭めたことがあった。その後遺症はまだここに刺さっている。綾はそのことを、言葉に出さずに抱えている。
本当は、綾は別のことを考えていた。自分が道具に施す手入れが人の疲労を映すなら、もっと慎重に使えば助けになれるはずだ。だが慎重さと、急ぎの救いを求める目の前の子どもと母親の痛みがぶつかると、綾の足元は揺れる。
「綾さん、どうする?」陽大が小さな手で木の椅子の角を叩く。音は乾いて島の空気に溶けた。
綾は決めた。保育所で夕食を一緒にとること、翌週の夜シフトを調整すること、そして必要なら行政には最小限の連絡だけをする。だがそれだけでは追いつかない――そう思った綾は、自分の力をもう一度使って、近隣に似たような家庭がいないか確認しようとした。手入れしたまま取っておいた小さなスプーンを取り、陽大に渡して「おやつ、何が食べたい?」と尋ねる。スプーンが子どもの口に入る一瞬、また別の光が差すかもしれない。綾は内心で呪文のように注意を繰り返した。急いではいけない。助けたいと焦ってはいけない。力は「役に立とう」と焦るほどに消えていく。代償は、力だけではない。綾自身が休めなくなるのだ。
だが、焦りは簡単に忍び寄る。真希の生活がかかっている。綾はスプーンを軽く振る。陽大がにっこりして口に入れる。――何も起きなかった。光は現れない。ただ茶色の瞳が綾を見返すだけだった。
綾の胸がきゅっと痛んだ。もう一度、今度は手を重ねて、真希の服に触れようとした瞬間、熱が手の先を走った。血の気が引き、世界の縁が揺らいだ。ああ、やってしまったかもしれない。無理に二度目を引き出そうとした。綾はその瞬間、力が遠ざかるのを感じた。喉の奥にふわりと綿雲が詰まったような感覚。体がだるく、目が開けにくい。心臓は妙に速く、夜に眠れない予感が確かなものになった。
「綾?」はなが駆け寄る。村上は電話を手にしている。三人の顔が陣形のように綾を囲む。綾はゆっくりと椅子に沈み、掌を膝の上に重ねた。匂いは油と海と、子どものせっけんの匂い。外では軽トラックのエンジン音が遠ざかったり戻ったりする。島の空気が澄んでいる分、体の中のざわめきがよく聞こえる。
「大丈夫?」村上が優しい声で言う。だが綾は首を振るしかなかった。代償の兆候はいつもこれだ。眠りが奪われ、時間がねじれる感覚。昨晩と同じベッドに横になっても、頭の中は針が刺したように冴えてしまう。力は「見える」だろうか、もう一度。恐らく、次に使えるときには誰かの疲労が新たに暴かれる。それを誰に向けるのか、選択は重かった。
戸外に、遠くから行政車両のライトが見えた。車はゆっくり保育所の前を通り過ぎる。水を走る音のように、タイヤがアスファルトを撫でた。窓に誰かの顔が映る。車は停まらない――一瞬、そう思った。だが二台目の車が角を曲がって入ってきて、正面に停車した。くすんだ紺の制服を着た男性が降り、足元の泥を払いながら歩いてきた。名札には「企画調整課 佐伯」とあった。
「おはようございます。公務でこの島の福祉施設を回らせていただいています。保育所の運営状況を簡単に伺えればと――」佐伯の声は事務的で、しかし垢抜けていた。彼は書類ケースを抱えて、保育所の入口で立ち止まる。背後の車の窓には、もう一人、女性が目を伏せて座っていた。二人とも、効率と数値の名前を知らない顔ではなかった。
綾は手の震えを抑えながら立ち上がった。はなは村上と視線を交わす。真希は無言で子どもを抱きしめる。陽大は足元でおもちゃをいじっている。
佐伯は書類をめくり、小さな紙切れを差し出した。「この島では現在、施設の再編を検討しています。人口と利用率を踏まえた上で、支援の最適化を目指す方針です。本日は、実際に現場の声を聞いて、必要な支援が何かを把握したく」
その言葉は柔らかい包み紙に入っているが、何か冷たいものを内包していた。「最適化」。綾の胸の中で、見えない秤がきしんだ。彼らは「効率」という名の計算式で、この小さな保育所の存在理由を測ろうとしている。綾は