離島の保育所の保育士は店を畳まない 第19話「第17章」
朝の光は薄く、港から吹いてくる潮の匂いが保育所の窓を濡らしていた。雨雲が引き切らないまま、屋根の古い板目がところどころ黒くふくれている。綾は台所の流しで野菜の皮を剥きながら、ふと天井の角からポタリと一滴落ちる音を聞いた。手が止まり、耳をすます。ポタ、ポタ、規則正しい。棚の上に並べてあった木製の汽車のおもちゃの線路が、いつの間にか小さな水たまりの周りにある。
朝の光は薄く、港から吹いてくる潮の匂いが保育所の窓を濡らしていた。雨雲が引き切らないまま、屋根の古い板目がところどころ黒くふくれている。綾は台所の流しで野菜の皮を剥きながら、ふと天井の角からポタリと一滴落ちる音を聞いた。手が止まり、耳をすます。ポタ、ポタ、規則正しい。棚の上に並べてあった木製の汽車のおもちゃの線路が、いつの間にか小さな水たまりの周りにある。
「やばい……」
綾は手を止めて包丁を置き、傘立てに突っ込んであった古いバケツを持って走った。子どもたちはプレイルームで歌を歌っている。はるとの小さな声、みおの甲高い笑い声が壁に反射する。床はまだ濡れていなかったが、汽車に溜まった水は木目に染み込み、ボディが膨張してきている。綾は息を吸って、ふとポケットから小さな瓶を取り出した。布に含ませた蜜蝋と植物油の混合。普段はおやつの器や木のおもちゃを手入れするときだけ使う、綾のささやかな「整え」の道具だ。
指先で木目にそっと擦り込む。蜜蝋が溶けて木に馴染むと、木の匂いが立ち上がった。糸屑のような光が瞬いて、綾の手にわずかに刺すような冷たさが走る。整えの力が顔を出すとき、いつもそういう小さな合図がある。木がほんの少し温かくなり、表面の欠けが繕われる。汽車を戻すと、はるとが駆け寄ってきて指で押した。車輪が滑らかに回ると、はるとの目がきゅっと細くなった。
そのとき、綾が意図していたのはただの修理だった。けれど整えた道具に触れた「その瞬間」、使用者の疲れの色が一度だけ見える。淡い膜のように、はるとの頭上に小さな風景が重なるのだ。綾にはそれが見えなくていい。見えるのは、使った者だけ――大人ならば、たいてい胸に重くのしかかる古い記憶や、数日前から切れている睡眠の断片だ。子どもには、それが単なる眩しい泡のように見える。
はるとは汽車を押す手を止め、目を伏せて小さくため息をついた。遊び続けるのか、休むのか、はるとの内部で小さな決断が起きるのが見て取れる。そこへ嶋田涼子が脱いだ靴を揃えながら入ってきた。彼女は町で届いた行政の書類を手にしていて、新聞の折り目が濡れてわずかにしわくちゃになっている。綾は汽車を手渡すつもりはなかったが、涼子が近づくと、はるとは無意識に汽車を差し出した。涼子の指先が木に触れた瞬間、彼女の眼差しが遠くなる。綾はそれを見逃さなかった。
涼子の肩に、綾には見えない細い線が一瞬光った。切れた布を貼ったように、うつろな模様が浮かんでは消える。涼子の口元が震え、両手の握りをゆるめて、床に腰を下ろした。新聞の折り目から落ちた自治体のお知らせがぱらりとすべった。はるとは不思議そうに汽車を眺め、やがて床に座って涼子の横に寄った。
「大丈夫?」綾が声をかける。涼子は震える笑顔で首を振った。「うん……ちょっと、今日は海が時化てて。夫が朝から出たきりで、電話も繋がらなくて。書類も、なんか、見てなかっただけなのに、もうすぐ保育料の改定の通知が来るって……」紙の端を指でなぞる涼子の手は冷えていた。綾は額に手を当てる衝動を抑えて、戸棚から温かいお茶の急須を取り出した。先週修理した急須だ。わずかな金継ぎの跡を綾はさらりと撫でると、急須はぴたりと音を立てて湯気を返した。
飲んだ涼子の目が、少しだけ柔らかくなる。整えが働いた。使った者にだけ、一度だけ、疲れの姿を見せる。涼子は膝に顎をのせ、しばらく遠い海の方向を見つめてから、ぽつりと言った。「ごめんね。私、ちょっと、誰かに頼るの下手で……」誰かに頼るのが下手。綾は頷くことしかできなかった。頼れる時に頼ることを教えるのも保育のうちだと、綾はいつも心の奥で思っている。
それでも、その午前が穏やかに進むわけではなかった。ノックの音が硬く、遅れて来た。玄関を開けると、濡れた肩章のついた男が書類を濡らさないようにしながら立っていた。森田一樹――市役所の担当だ。彼の手には、厚いバインダーと、事務的に整えられた表情がある。綾は胸の脈が一瞬早くなるのを感じた。森田は低い声で挨拶をし、メモ帳を取り出す。数字を確認し、眼鏡の奥できらりと光るものがあった。
「今日は、算定の現地確認です。ここ最近、離島の施設を統合する案が出ておりまして、定員稼働率や一人当たりの事務時間など、詳細を確認させていただきます」彼の言葉は事務的だが、壁の隅にあった雨音がそれを冷たく響かせる。綾は素直に笑って案内した。だが胸の底が固くなる。統合という言葉はいつも刃物のように冷たい。
森田が手にしていたのは書類ばかりではなかった。彼はポットに入れた熱いコーヒーを一口飲んだ。コーヒーは綾が前日、古いポットの蓋を直しておいたものだった。綾はその時、急いでいた。午前中にもう一度屋根の補修を頼める職人を手配して、子どもたちの午睡の時間を守りたかった。だから、彼のコーヒーカップの縁に小さな貼り付けをして、蓋のねじを締めた。整えの力をケアする余裕は、あまり残っていなかった。ここで無理をすれば、あとでしっぺ返しが来ることは綾も知っていた。
森田がカップを持ち上げた瞬間、なにかが違った。綾の中の合図が鳴らない。いつもなら、熱の反応か、指先の冷たさでわかるのに、今回は何も出てこない。綾は唇を噛んだ。彼の視界の端、コーヒーの湯気が踊ると、それでもう少しと、綾は無意識に彼の書類に手を伸ばした。角の折れた紙を直し、バインダーの端に小さな栞を挟み込む。栞の端には、かすかな和紙の匂いが残る。だがそれも、何も起きない。
「……ええと、何か体調は?」森田が尋ねる。綾は微笑む。嘘にはならない。体調は、普通だ。ただ、整えが働かなかったことが胸の奥に冷たい穴を開ける。綾は深呼吸をして、丁寧に説明をした。子どもたちの一日のスケジュールや保育方針、地域との連携。森田はメモを取り、時折頷く。だが顔つきは変わらない。数字が足りない、職員数が平均を下回っている、通勤時間の非効率がコストとして評価されている――彼のメモは次第に冷たさを増していった。
綾は内心で冷や汗が流れるのを感じた。整えは、使う人の疲れを一度だけ見える形にする。しかし、急ぎすぎるとその力は消える。今日、綾はあれこれ手を出しすぎていた。屋根の応急、急須の補修、汽車の手入れ。どれも必要だった。だが必要なものをすべて同時に背負えば、どれかがこぼれる。綾の身体が、いつもより冷たく、重くなった。
森田が最後のページに判を押すとき、綾は無意識に彼の手を見た。事務的な手だ。針のように正確だ。もしそこに疲れが見えれば、綾は何か違う向き合い方ができただろう。整えが働いていれば――。だが何も見えなかった。森田は鞄から一枚の書類を取り出し、静かに綾に渡した。市の方針と、もし基準を満たさなければ「統合提案」が正式に上がることを告げる紙だ。期限は二週間後。文字がはっきりと黒く、冷たい。
「判断は上で出ます。現場の声は聞きますが、数字が優先されるのが行政の常です」森田はそう言って、そうだとでもいうように小さな微笑を浮かべた。綾は目の端に熱を感じた。助けを呼びたい。だが幼い声が遠くで歌う。はるとの手が彼女のスカートを引っ張った。綾はその手を優しく握り、目を合わせた。保育所は店と同じだ。畳まないという選択