雪原の診療所の看護師は一人で頑張らない 第4話「第3章」
雪明かりのなか、診療所の窓は凍りついた息で薄く霞んでいた。凛子は白衣のポケットから古い布を取り出し、長谷川の腰にかけてあった革の手甲を丁寧に拭いた。指先に伝わる油と塩の匂い、擦れる布の粗さ。指の腹で縫い目をなぞると、手甲の内側に溜まっていた疲れがふっと浮いてくるように見えた。
雪明かりのなか、診療所の窓は凍りついた息で薄く霞んでいた。凛子は白衣のポケットから古い布を取り出し、長谷川の腰にかけてあった革の手甲を丁寧に拭いた。指先に伝わる油と塩の匂い、擦れる布の粗さ。指の腹で縫い目をなぞると、手甲の内側に溜まっていた疲れがふっと浮いてくるように見えた。
それは光でも霧でもない。やや黄味を帯びた細い筋が布の表面を這い、やがて空気の中にひとすじの線として立ち上がった。凛子は息をつめて見つめる。浮かんだ線は、壁に貼られた村の古地図へ向かって、淡い軌跡を描いた。地図の破線、旧道の記された部分で線は震え、そこで途切れた。
「ここだよな」長谷川の声に、凛子は頷いた。老漁師は痩せた掌を膝に置き、雪帽子を指で揉みしだいた。診察のとき、彼の呼吸音はいつもより浅く、歩き方もぎこちなかった。凛子は手甲を拭きながら、彼の疲れの形をたどって、どの辺りが危ないかを見つけたのだ。
「ありがとう、凛ちゃん。でも無理はしないでくれよ。あの道は——」長谷川が言葉を濁した。
「わかってます。でも、誰かが先に見に行かないと。あの崖の下は足場が崩れやすい。明日になると雪で見えなくなるかもしれない」凛子は地図を指で押さえた。手甲から立ち上った疲れの線は、もうゆっくりと消えかけている。彼女の能力は、手入れしたものから一度だけ疲れを視える形にする。見せられるのは一度きりだ。だから、迷いは許されない。だが──
「一度だけ、だもんな」美咲が入り口で手を組んで立っていた。彼女は診療所の世話係で、凛子のやり方をよく知っている。「凛ちゃん、一人で行くつもり? この風だよ。足跡も消えるし、道なんかすぐに見えなくなるよ」
凛子は布を畳み、手甲を元に戻した。指先に残る温度が冷たくなるのがわかった。「分かってます。でも、私が見てきた場所は、通学路にも近い。誰かが先に崩れたら、子どもや漁師が危ない。私が行けば、危ない場所を直して、帰ったら診療所で他の人に説明できる」
美咲の目が潤んだ。「だったら私も行くよって言うだろう。安田だって、あいつ黙っちゃいないよ」
凛子はわざと強い口調を作った。「違うの。これは私の仕事。医者でもない、いきなり機械を持ち出すわけにもいかない。まずは状況の確認が必要。道具を持って、崩れた土を少しだけ戻す。それだけ。私一人で行ってくる」
言い終えた瞬間、診療所の空気が静まった。長谷川が顔を上げて、細い笑いを漏らす。「昔から、若者は自分の力を試したがるもんだ。だがな、川の中に飛び込んだ魚は、二度と同じ傷を負わせられん。慎重になれよ」
それでも凛子は準備を止めなかった。古いスコップを磨き、油を差したランタンに芯を詰める。ランタンのガラスを布で拭いたとき、そこにもまた、だいぶ薄れかけたが一本の疲れの筋が浮かんだ。ランタンから立ち上った薄い光線は、雪道に沿って揺れ、遠方の丘を指し示す。彼女はそれを見て深く息を吸った。「ここから行く。先に道の端まで見てくる。戻ったら報告するから」
美咲が手を伸ばし、凛子の腕を掴んだ。「本当に、一人で?」
「うん」凛子は軽く首を振った。「大丈夫。長谷川さんの歩幅を見つつ、危ないところだけ直す。時間もかからない」
美咲は唇を噛み、何か言いかけてやめた。安田は診療所の外で支度をしていたが、その顔を見たとき、凛子は胸がぎゅっとなった。安田は若いが頼りになる元電気技師で、診療所の暖房や発電機を見てくれている男だ。彼は黙って荷物を担ぎ、凛子の方へ来た。足取りは重く、だが目は決して揺らがない。
「行くのか」安田の声は低かった。凛子は小さく頷く。
「無理するなって言ってくださいよ」安田は短く笑った。「お前が駄目だって言うなら諦めるけどな」
凛子は言葉を探した。だが本当は、彼の無言の同行が嬉しかった。誰かがその場にいてくれるだけで、不思議と力が増す。彼女はランタンの光を確認して、雪原へと足を踏み出した。
雪は腹まで来るほど深くはないが、冷たさは骨に染みる。ランタンの橙色が雪面にぶつかって、小さな影が踊る。足跡はすぐにふさがれ、風が音の輪郭を削いでいく。凛子は手袋をぎゅっと握りしめ、ランタンを体に引き寄せた。呼吸は短く、肺が焼けるようだ。
手甲から見えた疲れの筋は、雪の上で薄いほこりのように揺れていた。彼女はその筋を頼りに進む。だが冷気は意外と厚く、指先の感覚がじわじわと薄れていく。安田は無言で後ろからついてくる。時折、彼が腰を落として足元を確認し、凛子のために雪を踏み固める。
旧道の入り口に着くと、地面は脆く、下草が雪の重さで折れていた。遠くに見える小さな崖の縁に、木の柵が半分倒れている。ランタンの光で見ると、そこから先は土が崩れて大きな抉りができていた。凛子は息を吐き、尺棒のような棒で土を突いた。崩れた断面は冷たく、黒い層が露出している。その上に、新しい杭が一本立っていた。白い紙が厚手のビニールで覆われ、ブルーの印字が見える。
「——再整備区域、進入制限」安田が紙をつかんだ。手袋越しに触れたビニールは固く、風にパリパリと鳴った。凛子はもう一度、空に目をやる。疲れの筋はそこに無かった。道具から見えたのは一度だけ。あとは自分の手間と注意で確かめるしかない。
凛子は崩れた場所に近づき、ランタンを地面に置いて下を覗いた。下は深い溝になっていて、向こう岸の雪が道の端からえぐり取られていた。ここを子どもたちが通ることを考えると、血の気が引く。
「まずは端を補強する。木を差し込んで、雪が流れ込むのを防げば、しばらくは持つはずだ」凛子が言うと、安田は無言で脇のリュックから細い合板を取り出した。彼は電気技師らしく、道具を的確に選ぶ。手早く作業が始まる。凛子はスコップで雪を寄せ、安田は合板をV字に組む。
だが、凛子の体は徐々に反抗を始めた。足の指先が麻痺し、背中の筋が笑うように痛む。作業を急ごうとする自分を叱りつけながらも、彼女は手を速める。手早く、確実に。誰かが来る前に、安全にするんだ。
そのとき、ランタンの光が一瞬、ちらついた。凛子は顔を上げた。胸の奥がひゅっと冷たくなり、空気が重く沈んだように感じられる。手の中のスコップが滑り、汗と雪が混じった匂いが鼻を刺激した。安田がふたたび彼女を見た。「大丈夫か?」
「……うん」凛子は短く答えたが、言葉がどこか遠くに吸い込まれる。胸の鼓動が早まり、止めようとしても止まらない。息を整えようと立ち止まるが、体が言うことをきかない。急いでいるとき、助けたいと焦るとき、自分の力は薄れていく。凛子はそれを繰り返してきた。だが今は違った。光が消えかけるのを彼女は初めて、肉体で感じていた。
「力が、消える」彼女は小さな声で言った。疲れの形が見えなくなっただけではない。力が消えると同時に、体を休ませるための感覚が奪われる。眠気も、痛みも、収束するはずの緊張がそのまま残る。呼吸は速く、瞼は重いのに眠れない。体は燃え滅びる残り火のように震え、休むことを許してくれない。
安田が凛子の肩を掴み、軽く引いた。「止めろ。今は無理するな。ここで座れ。落ち着け」
凛子はそのまま膝をついた。雪の冷たさが刺さる。ランタンの橙は柔らかく揺れ、崩れた崖の黒が深く広