雪原の診療所の看護師は一人で頑張らない 第3話「第2章」
白い息が窓ガラスに沿って細く流れ、診療所の待合室のランプがゆらりと揺れた。凛子は手際よく湯たんぽの栓を締め、麻の袋をそっと布巾で拭いた。布巾はほんのり温かく、指先に伝わるぬくもりが彼女の心を少しだけ落ち着かせる。湯気は白く渦を作り、ふわりと立ち上るとその先に、淡い藍色の"糸"が浮かんだ。今はっきり見える。糸は細く、しかし折れ曲がりながら、誰かの背中の重さを語るように揺れている。
白い息が窓ガラスに沿って細く流れ、診療所の待合室のランプがゆらりと揺れた。凛子は手際よく湯たんぽの栓を締め、麻の袋をそっと布巾で拭いた。布巾はほんのり温かく、指先に伝わるぬくもりが彼女の心を少しだけ落ち着かせる。湯気は白く渦を作り、ふわりと立ち上るとその先に、淡い藍色の"糸"が浮かんだ。今はっきり見える。糸は細く、しかし折れ曲がりながら、誰かの背中の重さを語るように揺れている。
「今日もまた、お世話になります」安田が外套の裾をはらいながら、肩を丸めて入ってきた。頬は風に赤く染まり、鼻先は冷たさでつんとする。手には折りたたんだ新聞と、封筒に包まれた瓶が一つ。配達途中に倒れていた老犬のために、由馬に頼まれた消毒薬だ。
「ありがとう、あとは私がやるから」凛子は瓶を受け取りながら、湯たんぽをもう一つ取り出した。棚に並ぶ手入れ済みの道具たち——布袋、陶のスプーン、小さな缶詰。彼女が一撫ですると、道具たちはすこしだけ暖かく応え、また小さな色をちらつかせる。ひとつ使えばその人の疲労の形が一度だけ顕れる。凛子はその色を読み、何が一番困っているかを見つけるのだった。
だが、今日は患者が立て続けに来ている。足をひきずる老婦人、吹雪で足を凍らせた青年、声を震わせる小さな母親。凛子は脳裏で手順を反芻し、次々と対応しなければと焦る。診療所の入口のベルが鳴り、新たに足音が近づいたとき、彼女はわずかに息を飲んだ。右の掌がぴりりとしびれる。眠気が襲うでもない、ただ奥が重い。
「凛子さん、少し待っててもらえますか?」由馬が洗面所から顔を出し、首をかしげる。「犬の傷、思ったより深くて。縫うとき手伝ってくれる?」
「すぐ行くわ」凛子は答えたが、心は別のところへ引かれていた。待合室の隅に座る中年の農夫、伊沢。一見するとただの腰痛だが、彼の手元に置かれた陶の器は、先ほどより薄い灰色の渦を帯びている。渦は冷たさと同時に、どこか硬い匂いを放っていた。凛子はそれが"我慢"の色であると直感する。言葉にならない切実さ。だが今は由馬が呼ぶ。
縫合は慣れた手つきで終えた。糸を通すたびに、診療所の空気に針の微かな音が重なっていく。由馬は汗を拭きながら、「凛子さん、外で話があるらしい。尾島さんて町役場の人だけど、今日こっちに来たって」とつぶやく。紙袋の中で薬瓶が小さく揺れた。
町役場の出張員、尾島は帳簿を片手に受付に立った。顔は日焼けしていて、笑顔は事務的だ。背後には雪の向こうからの広報用のパンフレットがちらりと見えた——「地域医療効率化計画」。凛子の胸が微かに締めつけられる。尾島は資料を置き、すぐに用件を切り出した。
「伊沢さん、先日のご相談の件ですね。診療データをもう少し整備していただけると助かります。移動診療の回数と、診療時間の平均が今のままだと審査に引っかかる可能性があると……」
言葉は淡く、だが刃のように効く。効率、平均、審査。いつのまにか、患者の困りごとは数字に置き換えられ、物語は消えていく。伊沢は肩をすくめ、「わしらは生きることで手いっぱいだ」と短く言った。
凛子は用紙に目を落とす。数字はとても苦手だ。だが「あなたたちがどれだけ忙しいかを示せば、支援が来るかもしれない」と尾島は続ける。貰えるものがあるなら、記録に協力するのが良かろう——それは合理的な提案のように聞こえた。
その瞬間、待合室の奥から微かな咳が聞こえた。子どもだ。母親が膝に抱えた幼児を見下ろす。顔は青白く、唇はかすかに紫がかっている。凛子は立ち上がり、湯たんぽと小さなスープを手に向かう。彼女の指先は、湯たんぽの繭(まゆ)を撫でるようにして布を確かめる。湯気が一度、ふわりと立ち、いつものように――何も現れなかった。
空気がすうっと引っ込み、凛子の胸に冷たい空洞が生じる。息を呑む。道具に触れても何の形も見えない。目の前の母親が言葉をかける。「お願いします、診てください」。凛子は動いた。検温、聴診、頬を撫でる。幼児は熱を持っていて、呼吸が乱れている。喉に痰が絡んでいる音がする。処置が必要だ。だが、あの"形"が見えない。手元のスープはただ温かいだけで、疲労の糸は出ない。
由馬が振り返る。「凛子さん、大丈夫か?」
「ごめん、私……」声が少し震えた。焦燥が彼女の中に渦を巻く。もっと早く、もっと確実に——そう思うと、手は速くなる。スープをレンゲですくい、口に運ばせ、体を起こし、湿布を当てる。だが動くほどに、彼女の中の磁場のようなものは薄れていく。手早く行動することが、自分の力を消しているという実体験。診察の合間に、凛子は固く歯を噛んだ。心配が形になる前に、行動が形を砕いてしまう。
処置を終えた後の静けさが、辺りを重くする。幼児は眠り、母は涙を拭った。だが凛子の胸には"何かを見落とした"という感触が残った。外の雪明りが窓に当たり、背中の暖房器具が微かにうなりをあげる。その時、伊沢が呟いた。
「お前、さっきの湯たんぽでわしの背中を撫でたか? 妙に楽になった気がしたんだが」
凛子は首を振る。「触ったはずだけど……今日は色が出なかった。何度やっても、うまくいかなくて」
安田が腕組みをして、顔を曇らせた。「そんなことあるのか? 道具の手入れはいつも通りだろう。由馬、何か医学的な説明は?」
由馬は首をかしげ、「科学では説明できない」と言ったあとで、付け足すように、「でも疲れている時は見逃すことが多い、って聞いたことがある」と言った。由馬の声には同情が含まれていたが、それでも合理的な答えを欲しがる空気が診療所に漂っていた。
凛子は冷たい湯気の残り香を深く吸い込んだ。力が消えたとき、自分自身が休めなくなる。休めなくなるというのは実際に夜、眠れないということを意味していた。昨日もそうだった。目を閉じても体は休まらず、内側に小さな虫が這うような疼きが残った。翌朝も手が震え、スープの味が薄く感じられた。力を失うと、肉体が休止を拒むのだ。代償というならば、それは"回復できない"ことだった。
「もしかしたら、詰め込みすぎたのかもしれない」凛子は自分に言い聞かせる。だが言葉は薄く、周りの空気は冷たいままだった。
尾島は立ち上がり、書類をまとめ始める。「審査は数字がすべてです。皆さんの診療記録が整えば、補助金や人員配置の再検討が行えます。足りない部分は外部の支援で埋められますよ」
助けになるはずの言葉は、どこか均一で温度がない。凛子は窓の外を見た。雪原が、遠くまで白く平らに続いている。あの景色は美しいが、それはまた冷たい広がりでもある。彼女は自分がその寒さの中で孤立している気分になった。
「凛子さん、今日はここで休んでほしい」と由馬が申し出た。「僕が夜の見回りをやるよ。犬の手当てもあるし、記録も手伝う」
安田も続ける。「配達で回れるところは巡る。お前は無理すんな」
仲間からの助けは温かい。しかし、凛子の胸にある古い癖が顔を出す。頼まれれば断れない。頼まれなくても、見えたら自分が何とかしなければという責任感が湧く。だが今、"見える"ことは保証されない。彼女が無理をすれば、力は消え、彼女自身の回復はできない。それは、ここで誰かが倒れたら助けられないという恐れにもつな