星降る畑の農園主は壊れた関係を直しすぎない

星降る畑の農園主は壊れた関係を直しすぎない 第9話「第8章」

夜風が畑の葉を撫で、星が低く落ちてくるように見えた。結(ゆい)は木製の作業台に肘をつき、古い刃物を丁寧に研いでいた。鋼の縁を布で撫でるたびに、金属の匂いと湿った土の香りが鼻腔に混じる。右手親指の先がわずかに震える。星光が畝の縁に落ちて、刃に細い線を描いた。

夜風が畑の葉を撫で、星が低く落ちてくるように見えた。結(ゆい)は木製の作業台に肘をつき、古い刃物を丁寧に研いでいた。鋼の縁を布で撫でるたびに、金属の匂いと湿った土の香りが鼻腔に混じる。右手親指の先がわずかに震える。星光が畝の縁に落ちて、刃に細い線を描いた。

「もう来る時間だよ」

芽衣(めい)が声を潜めて近づき、背後で持っていた保存瓶を台に置いた。瓶の中で漬けものの葉がくるりと回り、微かな気泡が上がる。芽衣の息遣いは落ち着いているが、手の甲には畑仕事でできた浅い傷が幾つもあった。

「招待の返事は来ないの?」結は刃を拭きながら尋ねた。刃の金属面に小さな夜の星が泳ぎ、彼女の顔を淡く照らす。

「来ない。でも、来るって言った人がいるの」柊(ひいらぎ)が手元の小型ライトを消して、暗闇から顔を出した。彼は町から持ってきた小さな分析機のバッテリーカバーを爪で剥がしながら言う。「測量の若いやつ、悠真(ゆうま)。あいつ、昨日ここで写真撮ってた。話してみるって」

結は刃を布で包み、作業台の引き出しへしまった。作業が終わると、道具には決まりごとのように手を当てて「休め」と言い聞かせる。この所作がいつからか、彼女の力の発動の一部になっていた。手入れした道具や食器、食材に宿る光を通じて、それを使う人の疲れが一度だけ見える──それは映像とは違い、触れた者の胸のどこかに落ちる温度や重さで、見る者本人にだけ確かに伝わるものだった。

「直してしまうんじゃないんだよね?」芽衣が小声で結に確認した。芽衣の瞳には、いつもより真剣な光が宿っている。周りの空気が少し緊張した。

「直す、っていうより、気づかせるの」と結は答えた。「気づいた上で、自分で選べるようにしたいだけ」

三人の輪の向こう、谷間の道を白いライトが一列に入ってきた。測量機器の持つ冷たい発光だ。機械の目玉のような光が畝の溝を白く切り取り、星の柔らかさと対照を成す。その光の先に、若者が一人、カメラを胸に下げ、堅い歩幅で近づいてきた。悠真だった。彼の背後には、測量班の先任らしい中年の男、桑原(くわはら)がいた。桑原の顔には数年の事務仕事が刻んだ溝があり、腕に手にした書類の角が光った。

「こんばんは。写真はいい仕事ですね」柊が先に声をかけると、悠真は少し驚いた顔をした。彼は鳥肌が立つほど冷たい夜気を吸い込み、カメラを丁寧に拭いた。

「この畑、昼とは違う顔をしてる。…撮らせてもらっていいですか?」悠真の声は硬かったが誠実だった。顔色に疲れが滲む。彼の目は真新しい測量器ではなく、星の落ちる畝に釘づけだった。

「来てくれるだけでいいよ」芽衣が笑って肩をすくめた。「反対するために呼んだわけじゃない。話そうってこと」

桑原は封筒を手で押さえたまま、結に視線を移した。「こちらは開発側からの依頼で、先行調査です。邪魔をするつもりはありません。…ただ、予定が進むというだけです」

結はそれを聞いて、ぶるりと肩をすくめた。予定。言葉の重さが胸に落ちる。開発計画は数字を積み上げて場所を塗り替える。その秤は、見えない疲労や選択を重みとして計らない。

「じゃあ、来たら食べていきません?」芽衣が差し出した。小鍋から湯気が立ち、小さな香りが夜に溶ける。誘いは迫らず、押し付けず、その場の空気を温めるだけだった。

悠真はためらい、そして頷いた。桑原も書類を机の端に置き、座った。柊が手早くランタンを畝の縁に置き、柔らかな光が顔を撫でる。

結は鍋を火にかけながら、自分の手の震えを押さえた。芽衣が持ってきた器を台に並べる。彼女はいつものくせで、全ての器の縁を布で拭いた。布が器の表面に擦れる音が夜の中で際立った。拭くたびに、結の中で小さな光が器へ移るのを感じる。これが、力の行使の始まりだった。

一つ目の器を悠真に手渡す。その瞬間、彼は箸を止めて目を閉じた。彼女には見えないが、結は分かった。器の縁に映し出されたのは、若者が自分でも気づかないほどに蓄えていた疲れのかたちだ。悠真の胸に刺さるような、母親のために稼がねばならないという焦り。写真を撮って走り回った腕の重さ。若い体に不釣り合いな、夜間の目の光。

悠真は箸を握りしめたまま、小さく息を吐いた。「俺…母さんが、病気で。金がいるって…でも計画が進んだら、もう戻れないって言われて」

芽衣はそっと彼の手を取った。「ここに戻るって言うことが、全部を壊すわけじゃないよ。選べるってことは、選んだ後も続くもの」

次に桑原が器を取る。彼は書類の重さを指の間で感じながら、湯気の中で箸を動かす。器が触れられた瞬間、結には重い像が流れ込む。彼は数字に押しつぶされるように小さな音を立て、眉間に縦皺を寄せた。目の奥には、上司の視線、予算配分、出世のための予定調整。彼が動かされてきた軌道が見える。桑原はぽつりと言った。

「私だって、誰かの生活を壊すつもりはない。ただ、報告書は書かねばならない。決まりは決まりで……」

結は、自分ができることとすべきことの境目を確かめるように呼吸を整えた。器を拭き続ける手に、少し汗がにじむ。心のどこかで、もっと見せれば分かってもらえるはずだという衝動がうずいた。相手が本気で悩んでいるのなら、その悩みの全てを見せて、最善の道を選べるよう手を貸したい。だが、その「貸す」には代償がある。無差別に、短時間に、他人の疲れを次々と映し出すと、私の力は蒸発する。そして結自身が「休めなくなる」。肉体が休まらず、瞼を閉じても波が引かないような疲労が残るのだ。

頭の中で警鐘が鳴る。けれど芽衣の笑顔や柊の期待の視線を見れば、もう一度だけなら――という気持ちが溢れた。結は呼吸を深くして、もう一つ、もう一つと器を拭き続けた。

教師のように整列した器は、次々に人の胸を揺らした。近所の老夫婦、見回りの青年、施しを受けに来た人。すべてが一度だけ自分の疲れを見た。ある者は顔を曇らせ、ある者は笑い、またある者はぽつりと謝った。結はそれを見て、満たされた気持ちが胸に広がるのと同時に、針で突かれるような冷たさが背筋を走るのを感じた。

ふと、視界がゆらいだ。器の縁の光が薄くなり、手のひらにあった温度が急に引いていく。耳鳴りが小さく波打ち、呼吸が浅くなる。結は膝をつき、布を握る手に力を込めた。顔の前に広がる夜空が、突然遠くなるように見えた。

「結、大丈夫か!」柊がすぐに彼女の前に膝をついた。芽衣も手を差し伸べる。結はかすれた声で「ちょっと……」と返すが、言葉は砂を噛むように喉に絡んだ。

彼女は力を使いすぎたのだ。いつものように一つ二つと見せる分には、疲れた体も夜のうちに戻ることができた。しかし、短時間に多くを見せ、他人の疲れを「修復」しようと急いだ瞬間、力はふっと消えた。消えただけならまだしも、その代償は肌身に残った。結の体は眠りを拒むような焦燥で満たされ、横になっても体の芯が休まらない感覚がついてきた。目を閉じると明滅する光景が見え、呼吸が浅くなるたびに胸の中を小さな石が転がるように痛んだ。

「無理するなって、言っただろ!」芽衣の声が震える。柊は腕を回して結を支えながら、周りを見渡した。「任せて。今夜は俺たちが話を続ける。結は座ってられればいい」