星降る畑の農園主は壊れた関係を直しすぎない

星降る畑の農園主は壊れた関係を直しすぎない 第10話「第9章」

夜明け前の畑は静かだった。楠木澪は濡れた土の匂いを胸に吸い込み、星形の小さなオブジェを箱から取り出した。表面に残る細かな傷を指の腹でなでると、冷たい金属の感触が指先に伝わる。祭りで配るために磨き直したつもりだったが、昨夜の強風が運んだ砂が一粒、まだ溝に残っていた。

夜明け前の畑は静かだった。楠木澪は濡れた土の匂いを胸に吸い込み、星形の小さなオブジェを箱から取り出した。表面に残る細かな傷を指の腹でなでると、冷たい金属の感触が指先に伝わる。祭りで配るために磨き直したつもりだったが、昨夜の強風が運んだ砂が一粒、まだ溝に残っていた。

「みおさん、もうそんなに早くに?」平田誠一が焼き窯から持ってきた鉄のバットを差し出しながら声をかけた。焼きたてのパンの匂いが朝靄に混ざる。誠一の目が眠そうに細まり、頬に粉の白い跡がついている。

「いつでも風は来るから。星は明るいうちに並べておきたいんだ」澪は笑った。笑顔は自然に浮かんだが、胸の奥で針のような疼きが走る。右手の掌に残る、小さなやけどの痕──先週、古山さんの古い鋤を直しているときに手を滑らせたものだ。薬草を貼っても痛みはとれない。あのとき、あの一刻にもっと早く動いていれば、という気持ちが澪を急かす。しかし、彼女はその気持ちを押し戻した。自分の力には制約がある。急ぎ過ぎれば力は消え、澪自身が休めなくなるのだ。

「誠一、これ、最後の仕上げしてくれる?」澪は星形オブジェを差し出した。表面にわずかな砂目を残したまま、彼女は手を離す。誠一は黙って布で磨きをかけ、ぽんと手のひらにのせた。オブジェの冷たさが誠一の体温に触れると、表面に微かな光の揺らぎが走った。澪の目がそれを捉える。見えるのだ——手入れされたものは、使う人の疲れを一度だけ、見える形にする。

オブジェの光が、誠一の記憶を一瞬だけ映し出した。深夜の焼き窯、炎を見張る重いまぶた。父の古い時計、数え切れない仕込みの袋。妻に渡せなかった朝ごはんの写真をスマホに残す指先。誠一の肩がわずかに震え、息が漏れた。彼は布をぎゅっと握って、澪を見た。

「……俺、もう少し楽にできるはずなんだよな」誠一は照れくさそうに笑ったが、瞳は確かに曇っていた。澪はその曇りを見て、手を胸に当てた。自分が見せたのではない。オブジェが彼の疲れを映しただけだ。触れたものが一度だけ、真実を映す。澪はこの力を道具にも食べものにも使うが、いつも一回きりだということを知っている。

午前八時、町の広場に人々が集まった。渡良瀬丈一の背後に立つのは、白いロゴ入りのバンと、薄く光るパンフレットを配る若手の説明員たち。彼らは効率化の数字と、外部投資の利益を示すグラフを掲げる。暮らしを「改善」すると称して、新しい耕作システムと観光整備の計画を説明する。澪はソフトな笑顔で説明を聞きながら、胸の奥で異物感を感じていた。グラフの右端に、小さな注意書きがある。『非効率区画の買収・整備計画』。そこには星降る畑の名が薄く記されていた。

説明の後、澪は町役場から渡された古い鋤を手に取る。渡良瀬の説明員が新しいスコップを振るって見せる一方で、古い鋤は土のにおいを強く残していた。澪が研ぎ直すと、古い木柄に潜んでいたわずかなヒビと、握る人のしわが浮かぶ。今回は誰の疲れが映るのか。澪はためらいながらでも研ぎを進めた。力は有限だ。すべてを暴けば、守るべき選択が奪われる――それを知っている。

鋤を使うのは佐山香織だった。町役場の中堅職員で、澪より少し年下。彼女が鋤を握ると、オブジェの光は長時間の残業や上司に押しつぶされるような会話の断片を映した。会議室の蛍光灯、期限を短くする指示、夜道を自転車で帰る背中。香織の目に光が戻る。彼女はひとつため息をつき、「すみません」とささやいた。

渡良瀬はその光景を見たかのように、いつもの笑顔を崩さない。「我々は生活を豊かにするための提案をしています。効率化は、あなた方の時間と労力を回復する方法です」

声は低く抑えられているが、言葉には均等なリズムがある。効率化という単語の中に、選択の余地が含まれていないように聞こえる。澪は胸がざわつくのを感じながら、横目で古山さんを見る。古山は腕組みをしていたが、顎に白い髭が光り、目は冷たい湖のように澪を見ていた。

そのとき、天野梓が人混みを割って前に出た。若い教師だ。彼女は提案書のコピーを手にして、渡良瀬に向かって声を張る。

「説明はわかりました。でも、その『効率』は誰のためのものですか? 子どもたちが体験する時間? 年寄りが日々の散歩をする時間? それとも外部投資家が考える指標だけですか?」

渡良瀬は一瞬眉をひそめたが、すぐに笑顔を浮かべた。「梓さん、綺麗事だけでは暮らしは守れません。数値は公正です。選ばれた区画に資本を入れれば、町全体が恩恵を受けます」

梓はこめかみを押さえ、唇を噛んだ。澪はその表情を見て、彼女が教師として何度も子どもたちの保護者と話し合いをしてきたのを思い出す。梓は自分の判断で動く女性だ。ここで感情的に反論するか、冷静にデータを求めるか。彼女は深呼吸し、「私たちに選ぶ時間をください」とだけ言った。選ぶ時間。澪の胸に、その言葉が鈍い重さで落ちた。

昼過ぎ、澪は自分の農場の小屋に戻り、工具箱をゆっくりと開いた。午前中に磨いたオブジェたちが木箱の中で小さく光をこぼしている。澪の掌は冷たく、やけどの痕がひりつく。午前中に何度か誰かの疲れを映したせいか、身体の奥の眠気とは違う、鋭い疲労が澪を襲っていた。彼女は無意識に自分の肩を回し、背筋を伸ばす。

「休めって言われてもね」古山さんの声が背後からした。古山は小屋の横に腰かけていて、澪のやけどを知っている雰囲気のまま、静かに茶を注いだ。茶の香りが鼻をくすぐる。澪は一口すすり、口の中で渋みを確かめてから言った。

「私、急ぎすぎた気がする」

「何ごとも急ぎ過ぎると、見えなくなるもんだ」古山が目を細める。「お前の力はありがたい。しかし、あれで全部を変えられるわけじゃない。人の心がどう動くかは、お前が決めるもんじゃない」

澪は唇を噛む。古山の言葉はいつも直接で、余計な装飾がない。だがそこには厳しい優しさがあった。澪は知っている。自分がらにできることの限界を超えれば、力は消える。力が消えるだけでなく、澪自身が休めなくなるという代償が襲う。眠れない夜、呼吸が浅くなる朝、筋肉がけいれんするほどの疲労感。そうなれば、守るどころか迷惑をかける。

夕方、町の図書館で小さな集会が開かれた。梓が手配した場だ。若い親たち、農家の中堅、町役場の何人か、古山、平田——そして澪も席に着いた。配られた茶碗の縁に、朝渡した星形のオブジェの残骸(渡良瀬側が配ったサンプルの粗悪なレプリカ)が転がっている。人々の顔に昼の光が残り、窓の外には薄暗い雲が流れていた。

「私たちが選ぶ時間が欲しい」梓は静かに言う。声に怒りはないが、決意がある。「外から来た数字に私たちの暮らしを合わせるのではなく、私たちで選ぶ時間を作りたい」

香織が挙手した。「でも、そのための仕組みが必要です。現状では、予算も圧力もあって、個人だけでは無理がある。町の収支が——」

「その収支の見方が問題なのよ」古山が割って入った。「外のやり方は『効率』を基準にする。だが、効率の中に人の疲れは入らない。入れてしまえば、日々の細かな選択は消える。そういう仕組みを押し付けられたら、誰もが選べなくなる」

その場にいた誰かが、ぽつりと言った。「選べないって怖いよね」