騎士団の悪役令息は失踪した王女を探す

騎士団の悪役令息は失踪した王女を探す 第9話「第8章」

廊下の石はまだ昼の熱を残していて、足裏に微かなぬくもりを伝えていた。蝋燭の火は短く揺れ、壁に掛かる鎧の鋲が点々と金色の斑を作る。ロゼットは呼吸を整えながら、革袋から折り畳まれた羊皮紙を取り出した。紙の縁は油に濡れたように黒ずみ、手書きの文字が幾重にも重なっている。下の方には、薄く押された印章と、誰かの爪で引っ掻かれたような小さな刻印──「選択禁止」の三文字が浅く刻まれていた。

廊下の石はまだ昼の熱を残していて、足裏に微かなぬくもりを伝えていた。蝋燭の火は短く揺れ、壁に掛かる鎧の鋲が点々と金色の斑を作る。ロゼットは呼吸を整えながら、革袋から折り畳まれた羊皮紙を取り出した。紙の縁は油に濡れたように黒ずみ、手書きの文字が幾重にも重なっている。下の方には、薄く押された印章と、誰かの爪で引っ掻かれたような小さな刻印──「選択禁止」の三文字が浅く刻まれていた。

「これが、君の言っていた証拠か」
背後から静かに声がした。ユリオが短いマントを脱ぎ、折れた槍を抱えて近づく。彼の瞳はいつもより硬く、夕闇の中で銀色に光った。

ロゼットは紙を差し出す。指先に残る煤の匂い、紙の繊維がこすれる音。廊下の端、兵営の雑踏が遠くで消え入り、ここだけが静止した時間のように感じられた。

「これは──」ユリオは紙に目を落とす。文字は古い慣例書の抜粋、騎士団の配分台帳と、下級の月給に関する条項。だが行間に、条文では死角になっていた「異動の決定権」が小さな文字で追記されている。誰もが選べないとされていた下層の者たち──小姓や見習い、旧領出身の男たち──に関する「命運の割当」が記録されていた。

「彼らは選べないように見せかけられてきた。徴発、縁談、下働き――全部、用紙一枚で決まってしまう。しかも……」ロゼットの声は震えていたが、震えは怒りに変わる。「この書類は改竄の跡がある。上位の署名が偽造されている。だけど、改竄の痕跡を突けば、当事者全員の合意で読み替える権利が生まれる」

ユリオの顔色が変わった。彼がロゼットの能力を知ったのはここ数か月のことだ。制度の古文書の矛盾を当事者全員の合意で「共訳」し、条文の意味を実務に即して翻案する──彼女はそれを、妙に冷静な筆致で説明する。だが彼女の目は怖かった。紙を握る掌には力が入り、爪の白い線が浮いている。

「当事者全員の合意、だな。つまり、ここに名前のある人間たちの過半数、そして署名した当の騎士団上席──それに、法の名で縛られている者たちの代表がいなければ成立しない。」ユリオは帳面の隅を指でなぞる。「問題は、上席の一人がこの記録を負っていることだ。彼は今、城にいる。君ひとりが都合良く書き換えてしまえば、『一方的な運命決定』になる」

廊下の空気が重くなった。ロゼットは一瞬だけ目を閉じ、低く息をつく。彼女の能力は便利だが、代償は明確だった。誰かの運命を一方的に決めれば、自分の選択肢が一つ、不可逆的に失われる。どの選択肢を失うかは未来の流れに飲まれてみないと分からない。名も知れぬ可能性──結婚、職、帰郷、ひとつが消える感触は、たとえその代償がいつ来るか分からなくても、彼女には恐ろしい差し迫りをもたらした。

「私がやる。」ロゼットの言葉は静かで、しかし明確だった。「彼らを、選べない者たちに戻さない。これ以上、誰かの人生が台帳一枚で動かされるのは見たくない」

ユリオが一歩前に出る。石畳に靴の底が当たる音が硬く響いた。「それはできない。君が単独で読み替えを行えば、君自身が代償を払うことになる。君はすでに多くを背負っている。断罪される役だと、陛下の戯れのように押しつけられているんだ」

「わかってる」ロゼットは、鞘に手をかけた。金属の冷たさが掌の内側に伝わる。「それでも、放っておけない。私が……私たちが今、声を上げなければ、次の誰かが──」

廊下の奥から足音が近づいた。薄暗がりに、数名の仲間が現れる。ガブリエル、切れ長の目をした長身の女剣士。リネア、腕に皺を刻む年少の隊長補佐。彼らの顔に戸惑いと決意が混ざっているのが見えた。

「なにを騒いでいる?」低い声が来る。角を曲がって入ってきたのはカルドン――騎士団の中堅で、書類の管理を任されている男だ。彼はロゼットの持つ羊皮紙を見ると、表情を硬くした。「これは機密だ。勝手に弄れば、君はただで済まない」

「でも、その機密が人の運命を奪っている」リネアが答えた。言葉の端に怒りが滲む。「ここに名がある者たちの多くは、自分の意思でその場に立てなかった。故郷を追われた者、借金のために身売り同然で送られた者だ。彼らに選択肢を返したい」

カルドンは紙を奪い取る素振りを見せたが、ロゼットの瞳がそれを止めた。彼女は言葉を選び、ゆっくりと話す。

「共訳は可能だ。でも成立には当事者全員の合意が必要だ。ここに名を連ねる者の代表を呼ぶ。そして――もう一つ、上席の署名がない。こちらが不在を理由に拒否をするだろう。読み替えは、真の全員一致がなければ形骸に終わる」

静寂の中で、ユリオが口を開いた。「ならば──代替の当事者を立てることはできないか? つまり、この読み替えが下層にとって有益だとする『代表者』として、我々が全員の承諾を示す。だがそれは、事実上の『誰かの運命を決める』行為に等しい。ロゼットにその代償を負わせるわけにはいかない」

皆の目がユリオに向かう。彼の顔は無表情に近いが、手は少し震えていた。ユリオは長い間、騎士団に残る希望と、家に帰りたいという小さな夢を同時に抱いていた。彼はいつか、騎士団の旗印を上げ、自分の名で人々を守ることを夢見ていた。だがその日々はまだ遠く、彼は「選択肢」を数多持っていた。

「僕が……その代わりになる」ユリオは静かに言った。

「何を言っている」カルドンが短く吐き捨てるように言った。「お前は何を差し出すつもりだ」

ユリオはロゼットを見た。夕陽が窓から差し込み、彼女の剣の鍔に長い光の筋を作る。ユリオの声には揺るぎない決意があった。「僕は、後継の権利を放棄する。将来、騎士団の指揮を取る、という望みを手放す。代わりに、僕の名をここに刻んで、読み替えの代表者となる。君がこの書を一人で改める代償を、僕が肩代わりする」

空気が凍り付いた。誰もがユリオの言葉の重さを測りかねる。後継の権利とは、彼の家系にとって代え難いものだ。騎士としての出世、望んでいた未来、それを自ら手放す決断は、簡単なものではない。ユリオはゆっくりと紙に手を伸ばした。指先に古いインクの匂いがふわりと漂う。

「なぜ……」リネアの声が掠れる。「そんなことを……」

ユリオは肩をすくめるようにして笑った。「僕は、いつか誰かを守りたいと思ってここに残った。けれど守るっていうのは、旗を掲げることだけじゃない。今、ここにいる誰かが、台帳の紙切れで奪われる未来を取り戻す方が大事だ。僕の未来は、代わりが効くかもしれないが、彼らの人生はそうじゃない」

ロゼットはユリオの手を取ろうとしたが、彼はそれを軽く振り払った。彼女の掌に残った温もりが、すぐに冷えていくのを感じた。彼の選択は個人的な望みの放棄だった。彼はそれを言葉で示しただけではなく、文として記すつもりだった。古い慣例では、「個人の望みの放棄」は法的な証跡として成立する。ユリオは自らの未来の一片を、その場で削り取ったのだ。

「わかっているな。これが成立すれば、共訳は有効になる。しかし、それは君一人の代償ではない。僕が代わりに払うことは、戻らない代わりに、この団体が正しい形で変われるなら、僕はそれでいい」ユリオの言葉は静かだが、切迫していた。彼の眼差しはぶれず、誰にも媚びない確固たる意志があった。