騎士団の悪役令息は失踪した王女を探す 第10話「第9章」
石畳に残る鉄の匂いが、夕暮れの空気に混じって立ち上った。白薔薇騎士団の中庭は、日中の訓練の汗と油、甲冑の擦れる音がまだ抜けきらず、声は低く、足音は重かった。ランタンの淡い光が古い掲示板の木目をなぞり、そこに貼られた――ところどころ焼け焦げた――古文書の切れ端が、まるで呼吸するかのように揺れている。ユリオはその前に立ち、掌に残る紙の繊維の感触を確かめた。切れ端の一節は、王女セリーヌの手になるらしい破れた便箋の一行と重なっている。
石畳に残る鉄の匂いが、夕暮れの空気に混じって立ち上った。白薔薇騎士団の中庭は、日中の訓練の汗と油、甲冑の擦れる音がまだ抜けきらず、声は低く、足音は重かった。ランタンの淡い光が古い掲示板の木目をなぞり、そこに貼られた――ところどころ焼け焦げた――古文書の切れ端が、まるで呼吸するかのように揺れている。ユリオはその前に立ち、掌に残る紙の繊維の感触を確かめた。切れ端の一節は、王女セリーヌの手になるらしい破れた便箋の一行と重なっている。
「——『選ばれない庭』、と書いてある」カルミナが低く言った。彼女の声は、鎖帷子を擦る小さな音のように鋭い。肩に斜めに掛かった白いマントが薄暗がりで白く浮かぶ。
「『選』という字が目立つ。任命、選定を意味する場所と、それから離れたことを指している」フィンが言葉をつなぐ。彼はまだ少年の顔だが、瞳は硬い。破れた便箋の端に赤い蝋の痕があって、それが視線を引いた。蝋印は、王室の若き侍従の紋章に似ていた。
「それが、王家の体面を損ねるかもしれない。公にすれば大事になる」ローランが言って、腕を組む。年長の騎士は長い間、制度の守り手として生きてきた。彼の顔には過去の選択の深い刻みがある。
ユリオは便箋と古文書の断片を見比べた。古文書は婚姻に関する旧章の註釈書だ。官職、婚姻、継承についての条項がぎっしりと並び、ある行はこう書く――「婚姻の随行は、指定された代表の合意を以て換るべし」。註の欄にかすれた一文があって、そこに「合意の同一性を欠く場合、当事者の合意により読み替える」とある。だが、その「当事者」には王室、騎士団、家門が全て名を連ねている。実際にそう解釈すると、王女の「選ばれない」という状況は、法的に救いを与えうるはずだ。
「同意があれば、だが」ユリオが言う。彼には、いつも内にある冷たさがあった。周囲の空気が、彼の言葉に吸い寄せられたように静まる。
「全員とは、王と団長と関係家門の三者だ。ここに王がいない以上、同意は取れぬ」ローランがむすっと答える。
カルミナが一歩前に出た。夕風が彼女の黒髪を揺らす。「けれどセリーヌは、ただの『対象』じゃない。人として、どこにいるかを知る権利はある。それを放置するのが、私たちの仕事ではないの?」
「任務と忠誠は別だ」ランタンの光の中、団長ヴァレクが冷たく割り込んだ。彼は団旗の前に立ち、両手を背に組む。「王室の面目を損なえば、騎士団もまた滅びる。足元を見失えば、混乱を招く。秩序を守るのが我々の務めだ」
議論は、いつもの分岐点へと戻っていく。誰もが自分の守るべきものを挙げる。ユリオは聞きながら、背中にぴりりとした痛みを覚えた。痛みではない。それは、ある選択肢が胸の奥で静かに揺れる音だった。彼が使える術の代償を、いつも気にしていたからだ。
彼の能力は――古文書の矛盾を「当事者全員の合意で読み替える」ことを可能にする。ただし合意が得られなければ、その読み替えは効力をもたない。もっと厄介なのは、もし合意なしに一方的に運命を決めるようにその力を行使すれば、代償として「自分の選択肢を一つ失う」ということだ。具体的に何が失われるかは、使うたびに違った形をとる。予期はできない。ユリオはまだ、その代償の全てを経験していなかった。
「同意を取れないなら、俺が取る」とユリオは言い放つ。彼の声はいつになく低いが、芯があった。
「不可能だ。王の名なくしては法に穴が開く」ローランは眉を顰める。
カルミナはユリオを見た。そこにあるのは期待でも依存でもなく、問いかけだった。仲間たちの視線がユリオに集まる。彼らの意思は独立している。押し付けられた結論を待つのではなく、自ら意思を示すように。
「同意を取る手段なら、交渉で可能だ」マリアンが言った。彼女は宮廷の出身で、文書に読み慣れている。だが時刻は遅く、王都の役所がこの場で動くわけもない。外には既に噂が走り、朝になれば追手が来るかもしれない。
ユリオは深呼吸をした。掌にある古文書の端に触れると、紙はざらりとしていた。墨の匂いが鼻腔をくすぐる。彼は古い約束の文言をひとつ、静かに口に出した。合意を呼び寄せる言葉ではない。読み替えの前提――「合意であると認める不足を補う」ための手順だ。
「今、ここで全員の同意を取るには、ある者の代弁としての意思を預かる必要がある。だが、その者が不在ならば、私が読み替えを提示する」ユリオは言葉を紡いだ。合意という重い扉をこじ開けるための音が、彼の胸の内で鳴るのを感じた。冷たい金属音。
カルミナの瞳が揺れた。「ユリオ、それは……一方的な行為になる。代償を――」
「わかってる」ユリオが割って入った。「だが今は時間がない。セリーヌが戻ってきて、公に断罪される前に動かなければならない。もし読み替えができれば、彼女は——」
言葉が止まった。彼の脳裏に、セリーヌが庭で風に髪を揺らす姿が浮かぶ。その視線は折れた庭の薔薇と同じくらい壊れやすかった。
「いいだろう」ローランが静かに言った。「しかし、誰が結果を受け止める?あなた一人でその責任を背負えるか?」
「背負う」ユリオは答えた。そして彼は手を伸ばして、古文書に掌をつけた。冷たい触感が掌から骨に伝わる。読み替えの声は出さない。合意の呼び声だけが、胸の奥で鐘を打つ。
瞬間、空気が震えた。鎧の継ぎ目が軋み、誰かのマントが血のように紅く見えた。ユリオの視界が一瞬白くなり、そして鋭い感覚が彼を刺した。自分の中にあった一つの「道」が、鍵をかけられて閉ざされる感触。甘く冷たい喪失。言葉にできないが確かな、選択肢の欠落だ。彼はそれを胸の内に感じ取り、目を瞑った。
「やったか?」カルミナが囁く。
ユリオはうなずいた。声は枯れている。だが、すぐには喜べなかった。彼が一方的に読み替えを行ったため、法的効力は微妙な線に立ち、王室が介入すれば一蹴されるだろう。しかし即座に変わったものがあった。騎士団の内部で、古文書の註釈に新しい読みが生まれたのだ。ユリオの読み替えは、文書の行間に「可能性」として刺さった。表向きの合意はないが、解釈の余地が生じた。
「それで……彼女はどこにいる?」フィンが問い、指先が震える。
「まだ知らない」ユリオは答えた。「だがその文に基づいて、我々は彼女が『選ばれない場』から離れたのだと公に主張できる。探す口実を得た。だが王側は黙ってはいないだろう」
ヴァレクが顔を曇らせる。「だが団の統率はどうする?貴方一人が……」
その瞬間、騒ぎの向こうから足音が走ってきた。若い騎士たちが隊列もなく戻ってくる。彼らの眼には決意があり、肩には新しい力が宿っていた。彼らは団長の合図を待たず、自らの意志で動いていた。ヴァレクはその様子を見て、唇を噛んだ。
「我々は、命令系統だけで動くわけではない」若い騎士エドリックが言う。彼の手には小さな箱があった。中には庭で見つかった破れた薔薇の花弁が、無造作に詰められている。「セリーヌ姫のことを隠す者がいる。古い協定を盾にして、姫を『展示』するつもりだという噂がある」
「展示?」ヴァレクの声に苛立ちが混じる。「断罪劇のことか。そんなものをまだ続けているとでも——」
「我々の祖先が制定した断罪の舞台