騎士団の悪役令息は失踪した王女を探す 第3話「第2章」
書庫の石床はまだ夜の冷気を吸っていた。扉をくぐると、蝋燭の匂いと古い革の匂いが混じった空気が、三人の頬を撫でる。机の上に開かれた儀式用の帳面は、薄く埃をかぶっているが、頁の縁だけが異様に白く光っていた。
書庫の石床はまだ夜の冷気を吸っていた。扉をくぐると、蝋燭の匂いと古い革の匂いが混じった空気が、三人の頬を撫でる。机の上に開かれた儀式用の帳面は、薄く埃をかぶっているが、頁の縁だけが異様に白く光っていた。
「この時間に許可を取ってくれるとは、貴族はやはり図々しいな」
副長ロゼットはそう言いながらも、肩にかけた甲冑の金具をそっと触った。表情は冷たい。声の端は、ほんの少しだけ震えを含んでいた。彼女の左手薬指に刻まれた小さな痕が、軍律の中で身につけられた誓いを思わせる。だがその瞳は、誰も見ていない時にだけ見せる疑念で曇っていた。
「明日の宿直順を変えれば、王女の最後の目撃時刻に近い通路を任される人が変わるはずだ」
ユリオは帳面の上に手を置き、紙を指でなぞる。触れた指先に、冷たいざらつきが伝わる。彼の声は柔らかいが、そこにあるのは計算と焦りだ。「共訳による読み替えなら、文言の矛盾を当事者全員の合意で書き換えられる。今回のは典型的な行政的矛盾だ。実害は小さい。実験として完璧だよ」
トマスは膝を擦り合わせ、木の椅子をきしませる。彼の指先はひび割れ、爪の脇には収まらぬ黒さが入っている。家族の借金のために、彼は何度も稼ぎを送ってきた。彼の一族の名がどこかの公文書の余白に刻まれていることが、夜ごと彼の夢を締め付ける。
「だが、共訳には当事者全員の承認が必要だろう。ここにいるのは三人。明日の宿直に入る他の兵はどうする?」ロゼットは帳面の頁に目を走らせながら言う。軍の規定に触れる恐れと、騎士団の名誉を守る義務が彼女の口調を固くする。
ユリオは肩をすくめた。「だから小さく始める。宿直順の序列――班長の数え方をちょっとだけ改めるだけで、トマスをその通路に組み込める。ここにいる三人の合意だけで成立する。誰かの命運を決めるような決定はしない。まずは感触を掴もう」
だがロゼットは目を細めた。「『ちょっとだけ』で済む法令など、この国にはない。おまえはいつも口が軽い」
トマスが息を呑む。「俺がそこにいるだけで、王女の行方が掴めるかもしれない。家に帰るためだ。借金のことを片付けたいんだ。――どうか、やらせてくれ」
ユリオは彼を見返した。トマスの声には、本物の切迫が滲んでいる。ユリオの掌に走るのは、いつもの衝動だ。文書をなぞれば、ひとつの現実がひとつずつ書き換わる。だが拘束がある。「当事者全員の合意」。これを無視すれば、代償が訪れる。
「わかってる」ユリオは帳面の綴じ糸を軽く押さえ、示した。彼の言葉は静かだが、内側で何かが擦り切れる音がした。「やり方は二段階だ。まず合意のある範囲で実験する。成功すれば、他の当事者にも連絡を回して正式に改定する。だから――今日の段階では、俺達三人の合意だけで『宿直順の序列』の注釈を共訳する」
ロゼットはゆっくりとうなずき、剣の柄に触れる手を離して帳面へ向けた。その仕草は許可の証であり、また自分の手で何かを変えることを怖れる手つきでもあった。トマスは震える手を差し出し、三人の指先が同時に古い皮の頁に触れる。
帳面は、砂糖を振ったように一瞬白く輝き、次の瞬間、頁から淡い藍色の光がすーっと滲み出した。墨の黒が青へと変わり、その青は指先から、部屋の空気へと広がっていく。蝋燭の炎が一瞬揺れ、三人の呼吸が一つに重なる。音が変わった。普段は気にならない床のきしみや遠方の水車の音が、まるで楽器のように鮮明になり、彼らの心拍と呼応する低い和音をつくった。
「共訳を施す。各自の意思を言葉にして、ここに残すんだ」ユリオの声はかすかに震えた。「言葉は具体的に。目的と範囲を明確にする。『班長の数え方を――行政的な順序だけに限定して』――と」
三人は順に、短い宣言を口にした。ロゼットは「騎士団の規律と名誉を損なわぬ範囲で」と言い、トマスは「家族のための一時的な配置変更のみ」と言った。ユリオは最後に、「変更は一時的な実験に限る」と付け加えた。
藍の光は頁をなぞるように踊り、墨の文字が音をともなって滑り替わる。文字が動くたび、彼らの胸の中で何かが軋んだ。音の和音が高まり、ユリオの胸奥に冷たい牽引が走る。ほんの短い瞬間、彼は自分の中にあった「選べる未来」の一つが、指先でつまみ出されて蒸発するのを感じた。
それは小さな痛みだった。まるで、指先の感覚が一つ薄れるような。だがその薄れが意味するのは確実だった――彼の内部に並んでいた可能性の一つが、確かに消えたのだ。
帳面の最後の行に、新しい注釈が滑り込む。――「班長の序列は業務上の便宜のため、実験的に再編成される。対象はこの頁に署名した者の承認のもと適用する。影響は即時かつ一時的なものとする」
下に三つの署名が――ロゼットの赤い印、トマスの乱暴な墨の跡、ユリオの細い文字。
成功だった。トマスの顔に、初めて揺るぎのない希望が差した。だが同時に、ユリオは胸に空いた小さな空洞を感じた。あの空洞は、何かの代価だ。代価は見えない形で、確かに取られた。
「うまくいった」トマスが吐息を漏らす。彼の声は震えていたが、笑みが浮かんでいる。「明日の宿直は――あそこだ」
ユリオは頁に近づき、変更された宿直表に目を走らせた。そこには確かに、トマスの名が書かれている。だが同時に、元の番号の間にあいた空白が目に入った。誰かの名が、故意に消されたように見える。頁の角からは、布片のようなものがはみ出していた。ポケットに忍ばせた指先で引き出すと、それは細く擦り切れた緋色の布切れ――王女の頭飾りによく使われる縁取り布の破片だった。
ロゼットの目がわずかに見開かれた。彼女は瞬間、軍人としての冷静さと、ひとりの女性としての恐怖を同時に露わにする。トマスは息を飲む。ユリオはその布を掌で包んだ。縫い目には最後に縫われた者の指の油がまだ残っている。最近まで誰かが持っていた証拠だ。
「これ――」ロゼットは声を落とした。「誰かがここに触れた。騎士団の中に、何かを隠した者がいる」
「隠した?」トマスの顔色が変わる。借金の重圧が、すぐに新たな恐れへと変わっていく。もし騎士団の誰かが関与していれば、彼の家の面倒を見ている者――債権者――に利用される可能性がある。
ユリオは咄嗟に、頭の中で残っている選択肢をめくった。ここからのやり方は数通りある。公式に調査を要求して騎士団の全面捜査へ持ち込むか、三人で密かに動いて手がかりを追うか。公式な道は騎士団の巨大な力を借りられるが、同時に王室と組織の目に晒される。密かな道は自由度が高いが、失敗すれば三人とも壊滅だ。
胸の空洞がもう一度疼いた。彼がさっき一方的に運命を動かした代価は、それが何であったかを知らせてくれている。自由に選べる数が一つ減った。だからこそ、次の選択は慎重でなければならない。
ロゼットが決意を固めたように立ち上がる。火の灯る蝋燭が彼女の横顔を撫で、金の飾りが揺れた。「私は副長として、正式な捜査を要請する。内部の記録と当直の聞き取りをだれに止められようと行う。王女の行方は騎士団の恥だ。私がそれを――隠したままにはしない」
ユリオは彼女の目を見た。そこには自らの忠誠が刻み込まれている。だが同時に、彼女は室内にいる他の三十人の兵士たち